結局のところ、自分は何も得られなかった。

就職も決まり、平穏な日常に戻った。そこそこ早いタイミングで、そこそこいいところに内定をもらい、それでも何も前進していない。

 

ただ、良いことを学んだ。

それは「自分を正当化すること」。

 

”自分が自分を信じられないで、誰が自分を信じられるというのか。”

 

誰かがそんなことを言っていたが、これはなかなかの至言である。

もちろん家族や親友、恋人、自分を信じることのできる人間はいるかもしれない。しかしながら、それらは全部有限で、親もいつかは死ぬし、友人だっていつまで友人をやってくれるかなんて、保証はできない。

 

生まれてから死ぬまで、ずっと自分を信じ続けることができるのは、自分だけ。自分こそが正義なのである。この世の正しいことは全部多数派に導かれてできた偽りなのだから、一人ひとりにとって正しいのは、他でもない「自分」なのである。

 

自分が好きで自分を護りたい一心で、そんな自分が認められたいから、ここにもう一度書き殴っていきたい。

ありのまま近頃あったことを話すと、就職活動という一言に尽きる。

忙しいっちゃ忙しいわけだけれど、常に動き回っているわけでもなく、ただ常に思考が忙しいというだけのことである。

心配だったり不安だったりで、こんなときにこそ、自分を見つめ直す機会が多くある必要があるのかもしれない。

 

面接なんかを受けにいくと、人の多様性に気付く。

「こんな学生もいるのか」という発見が数多くあったりして、多少の感動をあれども、不思議な気持ちを抱くことのほうがよくあると言っていい。

 

もしかしたら、一歩道が違っていれば、あの人のようになっていたのかもしれない。

あの決断がなければ、あの大学に入っていたのかもしれない。

 

一つ一つの決断が、道を異なるものにしてきたのだ。

ただ決断以前に、もし自分があの見た目で、あの頭脳で、と仮定をしていくと、本当に自分が今生きている世界が本当なのかわからなくなる。

 

地球にはおびただしいほどの種類の生き物があって、さもそれぞれが自分たちと同じ命を育んでいるかのように人は語るが、自分がその数えきれないほどの生き物から、人間という特異な生き物に選ばれたことを信じられるだろうか。

 

ほんとうにこの世界は、正しいんだろうか。

嫉妬という感情が自分の心に芽生え始めたのは、つい2,3年前のことである。

いや、ほんとうはもっと昔から、存在はしていながら、それに気づくことができなかっただけなのかもしれない。

「他人を妬んでいる、相手に妬いている」という自覚に達したのが、そのときだったのかもしれない。その段階に達するための条件を、大学に入ってから着実に満たしていったのだろう。

 

ついに顔をのぞかせた嫉妬の感情は、自分の知らないところで確実に蔓延していった。自分の知らない自分が姿を現したことで、心底自分がそれに心奪われていることを自覚した。

 

でも、自覚したときにはもう遅かった。この苦しみを伝えようとすればするほど、理解されることから遠ざかっていくような気がした。

あるときから、自分はその感情から解放されていった。それに対する執着が薄れていったからである。

だがそのときの自分は、もう克服したんだ、という勘違いを犯してしまった。

 

人は失ってしまったそのときに、重要性に気付くのである。

 

結局自分も同じ。後悔しないようにとずっと誓ってきたのに、それの重要性に気付くことはできなかった。嫉妬の感情から逃げることで、その問題の根本からも遠ざかってしまった。

 

あのとき自分が、戦ってさえいれば。

そういう後悔が今の自分を作っているとすれば、自分は少しでも強くなれているはず。

自分は就活生であるにもかかわらず、自己分析ということはしない。

というのも、エントリーシートだとか、履歴書だとかで自己PR欄があると、いつも自然と考えさせられるからである。

自己PRなんてあるわけないだろう。たかだかなんも考えずに大学生活ダラダラ過ごしてきた青二才に、社会で活躍できるほどの器があるはずがない。でも書かなきゃならない。嘘でも多少盛っても、書かなきゃ食ってはいけないんだから。

 

自分がどんな人間かを考える機会が増えたことで、自分はなんでも理屈で解決しようとする節があることに気付いた。

 

「なんか~が好きなんだよね」

「ほんと~って嫌いだわ、なんかムカつく」

 

その『なんか』が引っかかる。理由を考えようと思わないのか?ってついつい考えてしまう。

感情ばかりの人間を批判して優越感を覚えようとする、醜いイタいところがある。

 

でも抑えようと思えば抑えられる。我慢しなきゃいけないときは我慢する。

わかってほしい、ちゃんと考えてほしい、そういう気持ちがそれでも止まない。

 

こんなだから取り返しのつかないことになる。

きっとまた大事なものを失うはめになる。

頭の良さというものには種類があることを知っておかなければならない。

学歴や職歴は確かにその人間の経験を映す鏡ではあるが、頭の良さと直結することはない。

 

頭の回転が速いこと

物事の憶えがよいこと

発想や発言力に富んでいること

世の中を上手く生き抜くこと

 

こういった頭の良さが肝心な時に働くからこそ、経歴に結びつくのである。決して才能だけで決まるわけではないが、ポテンシャルは大きく影響しているだろう。

 

ただ、こういった能力が備わってなくとも、見えないところでコツコツ努力して、そのポテンシャルの差を埋めようとする人間もいる。

 

だが、努力は才能には決して勝てない。

 

なぜか。大きな努力、もしくは自分にとって過酷と言えるほどの試練を経験しない者は、諦める選択肢を容易に選ぶことができるからだ。諦めたり妥協したりすることは合理的な人生を歩むうえで必要であり、その簡単な答えに早くありつけるのだ。

 

そう、世の中は綺麗なことばかりで出来てはいない。

もう自分は駄目なんだな、って思うことがある。

このまま何も変わらず、大きな感動も、動揺もない人生を歩んでいくんだな。

 

輝いていたときの自分を思い出そうとしても、まったくそのときの自分が思い出せない。

でもそんな頃の自分は、綺麗なふりをしていただけで、ものすごく汚かった。

誰かを出し抜いて、自分を誇示して、見下してるくせに対等に接するふりをして、

 

だからそんな自分が好きになれなかった。なのにそんな自分が好きだという人もいた。

 

今の自分は、昔よりも自分のことが好きなんだと思う。でも悲しいことに、周りはそうじゃない。

取り繕って、ごまかして、親切で、そういう都合のいい人間を周りは欲してる。

 

自分にとっては、この何年かの変化は成長なのに、なぜかそれを誇れない。

 

本音を語り、自分を出せば出すほど、理想から離れていく。

本当に俺は、今の自分を好きでいていいのだろうか。

今までの人生の中で何か高い目標を掲げて、それを達成できたことなんて、これっぽっちもないけれど、それでもきっと、自分はそれなりにやっていくんだろう。

 

なんの根拠もないけれど、根拠を一つ一つたてて考えていると、人は悪いものしか見えなくなる。だからこそ、この根拠のない自信を持つことが必要なのである。

 

いつだってそうだ。夢とかゴールとか、自分の決めたことでも達成して、歓喜に酔いしれることなんてなかった。

でも人は夢を見る。そんなの無理だと現実的に考えても、その先にある理想を追い求めるように、もともと人間というものはできているのだろう。

 

大きな夢なんていらない、高い目標なんていらない。

そう考えていた自分は、それを目指すことの苦しみから逃れようとしていただけ。

 

どんなにくだらない理想でも、きっと持ち続けることそれ自体に、大きな意味があるのだ。

自分はテクノ依存症だし、基本暇人だろうからと高を括っていたけれど、意外とそんな人間にも忙しい時期というのはやってくるものである。

だからこそ書けるときは、自分のために、精一杯書こう。

 

神様仏様って言うと、なんだか胡散臭く感じるだろうが、本当はそうであってそうでないような存在が、この世にはあるんじゃないか、なんて思うようになった。

 

異常な造形をした昆虫が遠く離れた土地にはいるし、よくわからない生態の動物や、止まったハエを食べようとする植物までいる。

 

それと同じように神様が作ったのであれば、「男女」というものはなんて面倒くさく作られたんだろう。感じ方も、感性も、ものの考え方まで異性というだけでまるで違う。

 

どうしてもっと似せて作らなかった。その結果すれ違って苦しい思いをする人間が出てくるのに。

誰かの面影がふと浮かんで消える、前のことでもよく憶えてる男。

過ぎたことは自然にすぐ忘れて、一転して無情な女。

 

どう考えても不公平だとは思わないだろうか。

人間が繁栄のために進化してきたのであれば、なぜこんな非合理的なシステムになったのだろう。

 

神が忘れろと言おうとも、必ずこの無様な思いも墓まで持っていくって決めた。

それで見下されたとしても、そうじゃない自分は自分じゃない。

就職活動をし、企業説明会に行くと、どんな企業でも使う魔法の言葉

 

「ワークライフバランス」

 

近年注目されていたワード「ブラック企業」は、企業自身が口にすることはなかった。

それもそのはず「うちはブラックじゃありません」なんてどの企業もアピールしないだろう。ブラック企業の存在を認めてしまうこと自体が、タブーなのだから。

 

ただこの「ワークライフバランス」。聞こえが良いことに、どこもかしこも覚えたての言葉を幼児が発するかの如く使いまくっているのである。

 

要は、仕事と生活の両立によってさらなる効率の向上を目指しましょう、といったものである。

ただ、

 

「うちはだいたいに~時に定時退社。近頃はワークライフバランスが・・・」

「福利厚生が充実しててですね、ワークラフバランスの徹底を・・・」

 

というふうに乱用されまくっているのである。

別に使いたかったら使えばいいけど、皆聞いても「またか・・・」って思ってる。

自分はこういう性格のせいなのか、よく自分の不満とか、悩みとかを公にすることがある。

その度に

 

「闇が深い人?」

 

って思われがちだし、仲が良ければそう聞かれる。

闇が深いってなんだよ、と。

 

別に自分に限った話じゃないし、人は普通に生きてれば日常生活の中で思うことも積もっていくだろう。それが個人的か社会的かに関わらず。

 

逆に、「そんなに思いつめたりしないから」とか「そんな難しく考えないから」とあしらう人間は、それほど軽薄な生き方をしているか、思いつめることから逃げているだけである。

 

どんな人間の心にも闇は住まうものであり、自分は正直だからこそそれが表に出ているだけ。

 

人に対して「闇が深い」と指摘するのは、自分はいかにも健康で正常に生活しているということを比較対象を作って主張しているだけのように思えてならない。

 

だからこれからこのフレーズを使う知人には、徹底的に自分の意見は述べようと思う。

そういう自分が一番自分らしいと思うから。