先日の「歴史書から学ぶ読書会」第1回の「史記本紀」の周本紀第四のメモです。
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周(紀元前1046年頃 ~ 紀元前256年) 殷(商)を倒した。
 西周(紀元前1046年頃~紀元前771年)
遷都して東周(紀元前771年~紀元前256年)

后稷(こうしょく)名は弃(き)姓は姫(き)
 母の姜原(きょうげん)は、帝嚳(ていこく)の元妃(正后)であったが、ある日、野原に出ると巨人の足跡があり、それを見ると心がうきうきして踏んでみたい気になって、踏むと身ごもり、子どもが生まれたが、不吉なこととして、幾度が捨てるが結局、その子を神の童と思い育てた。
子どもの頃からきりっとした成人のようで、その志も大人のようであった。遊びも麻や菽(まめ)の栽培で立派に実らせ、成人すると農耕に力を発揮し、民が参考にしていることを帝舜が聞き、農師=后稷(農耕を司る長官)とすると、農業生産の向上に大きな力を発揮したので、帝舜は邰(たい 陝西の武功)に封じたところ、弃は后稷と号した。
帝堯・舜・禹の三代に仕え、名声が高かった。

不窋(ふちゅつ 后稷の子)
 末年に夏后の政治が衰え、稷官(農官)を辞めて職を失い、戎狄に逃亡した。

→子の鞠(きく)→子の公劉

公劉(鞠の子)周朝の興りの始まり
戎狄の間で生活していたが、后稷の役を修め農耕に励み、各地を巡り材木の活用を図った結果、民が富んで、その徳になつき、他国からの移住者が増えた。

→子の慶節→子の皇僕→子の差弗→子の毀隃→子の公非→子の高圉→子の亜圉→子の公叔祖類→子の古公亶父(ここうたんぽ)

古公亶父(のちに追尊され太王)
后稷・公劉の業を修め、徳を積み、義を行ったので国人みな君として愛戴した。
戎狄の薫育の侵入に対して、一族を率いて地を去り、岐山の麓に移動すると残された国人たちや隣国の者もその仁慈を聞いてやってきた。
岐山の麓で城郭や家屋を築き、邑を区画し、五官有司を設置して統治した。
子どもには、長子の太伯、次子の虞仲、末子の季歴がいた。
季歴の子の昌が生まれたとき聖瑞があり、古公はこの昌のときに興隆すると語ったところ、太伯と虞仲は荊蛮の地に行き、入墨して髪を切って蛮人となったので、季歴が跡を継いだ。

公歴(季歴 末子 追尊され王季)
古公の残した道を修め、義を篤く行ったので、諸侯が服従した。

昌(西伯昌 季歴の子 諡は文王) 
后稷・公劉の業に従い、古公・公季の法にのっとり、仁に篤く、老を敬い。少を慈しみ、賢者を礼し、よく士を遇したので、多くが文王に帰服した。
紂王の臣の讒言により紂王に囚われるが、家臣の閎夭(えんよう)らが、寵臣の費仲を通して紂王に美女や名馬や珍奇なものを献上して赦しを得て、昌は洛西の地を献じて、炮烙の刑の廃止を求めて実現した。
西伯は善行を施したので諸侯は争い事があると、みな西伯に訴えて判断を仰いだ。虞と芮の二国の国人の争いの調停依頼で西伯の周に行くと国内の様子に恥じ入り、お互いに譲り合うこととなり、諸侯たちは、「西伯にこそ受命の君」だと言った。
犬戎や他国を打ち破り、領土を拡大し、岐山の麓から豊邑に遷都した。

発(武王 昌の子)
殷の法と暦を改め、周の制度暦法を作った。
即位し、太公望が師、周公旦(弟)が輔、召公・畢公らが軍を担当
九年目に文王の命を奉ずる形で東征を開始すると、盟津に諸侯が800人集まったが、「まだ天命が殷を去っていない、時機ではない」として引き返した。
二年後、その間も紂王が暴虐政治を行っていたので、ついに打倒を決意し、文王の位牌を奉じ、諸侯を率いて、牧野の地で打ち破った。
「殷王紂は、自ら天命を失い、天地人の正道を壊し・・・今われ発は、ここに敬んで天の罰を行う」
殷(商)の都の朝歌(ちょうか)に入り、周王朝を開き、紂の子禄父(ろくほ)を封じて殷の余民を与え、弟の管叔鮮と蔡叔度を補佐につけた(後に三人で反乱)。地方を巡狩し、政事を記し、諸侯を封じるなどを行った。
神農の子孫:焦(河南・陝)、黄帝の子孫:祝(東海)、帝堯の子孫:薊(北京周辺)、帝舜の子孫:陳(河南・宛丘)、大禹の子孫:杞(河南・杞)
太公望:功績一位とし営丘(山東・臨淄)に封じて斉、周公旦:曲阜(山東・曲阜)に封じて魯、召公奭(せき);燕(河北)などに封じた。

誦(成王 子)
若くして即位したので、周公旦が摂政になったが、このときに殷の武庚禄父とその輔佐の菅叔鮮と蔡叔度が反乱を起こしたが、周公旦に討伐され、微子開を殷の後継者として宋を建国させた。殷の民を衛(河南・汲)に移して武王の末弟封を衛に封じて康叔と呼んだ。
七年後、周公旦は、成長した成王に政を返して臣下の地位についた。
淮夷を討ち、奄国(山東・曲阜の北、殷の一族)を滅ぼした。
殷の礼楽を正して周の礼楽を興し、制度を改めたので人民が和睦し、太平をたたえる歌声が起こった。
東夷を討つと、息慎(そくしん 粛慎、遼東方面の夷族国)が入朝した。

釗(しょう 康王 子)
 文王と武王の遺業を継ぐことを宣告し、召公と畢公のサポートを得てよく治め、成王と康王の40余年間は天下安寧で刑罰を用いなかった。
 民の善悪で住居を区別し、郊外の境界を明らかにさせようとした。

昭王瑕(子)王道がやや衰える。
穆王満(子)即位55年
立て直しをはかり内政を安定させるも、臣下の諫言を押し切り、犬戎討伐を成功させるも、諸侯の不和が起こった。
→子の共王→子の懿王 王室がついに衰える →孝王(共王の弟)→夷王(懿王の子)→厲王(子)

厲王胡(夷王の子
 即位30年、臣下の諫言を聞かず、利を好み独り占めする栄の夷公を重用する。
「匹夫で利を独り占めにしても、なお盗と言います。王の身でそれをなされば、帰服するものがなくなりましょう。もしも栄公が用いられるなら、周は必ず滅びます。」
暴虐で驕り高ぶり、国人への監視を強め、誰もものを言わなくなり、諸侯は入朝しなくなった。誰もものを言わなくなったことについて、「誰もいうものがいない」と喜んだ。
●召公の諫言
「民の口を防ぐのは水を防ぐよりも危険・・・水を治める者は、はけ口を開けて水を導き、民を治める者は、民に思うことを言わせるのです。思うことを言えるか言えないかで、善政と悪政が分かれるのです。」
厲王は聞き入れず、3年後に反乱が起こり、出奔させられた。その後14年間は、召公と周公で政治が行われ、号して共和といい、出奔先で厲王が死に、二人は子の静を王とした。

宣王静(厲王の子)即位46年
召公と周公が輔佐して政治を行い、文・武・成・康の遺風にのっとったので、諸侯が入朝した。
即位39年、姜・氐(ともに西戎の一種)の戎に敗北

幽王(宣王の子)
即位2年に都の成周から三川地方に地震 →「周が滅びようとしている。天地の気が正常なら秩序が失われない。秩序の失われるのは人が乱すから・・・陽気が失われて陰気の下にあれば、からなず水源がふさがれ、水源がふさがれれば国はかならず滅びる。・・・むかし伊(伊水)・洛(洛水)の水がつきて夏が滅び、黄河が涸れて商が滅んだ。いま周の徳は夏・商二代の末期に似ており、川原もふさがれた。・・・国の存立はかならず山川の力によるもので、山が崩れ川がつきるのは亡国の徴候である。・・・」
正后(申后)と太子を廃し、寵愛する褒姒を后に、その子伯服を太子にした。
笑わない褒姒が、たわむれに烽火をあげると諸侯がみな駆けつけたが、寇(あだ)は来なかったが、それを見て笑ったので、たびたび同じことをしたために、集まる諸侯がしだいに少なくなった。
佞巧で、よくへつらい利を好む石父を登用したために、国人みな恨んだ。
申侯は申后の廃しに怒り、西戎・犬戎などともに幽王を攻めると、烽火をあげるも諸侯は誰も来ず、殺害された。

平王(もとの幽王の太子宜臼) 西周→東周 春秋時代となる 即位51年
東の雒邑に遷都した。このとき秦の襄公が兵を送り支援したので、諸侯とし岐山以西の地を与えた。
周室衰え、斉・楚・秦・晋の諸国が大きくなり、方伯(諸侯の大なるもの)が政を担当した。

桓王(平王の孫)
荘王侘(桓王の子)
周公黒肩(こくけん)が王を殺し、王子克を立てようとしたが防いだ。
釐王胡斉(きおうこせい 荘王の子)
斉の桓公が初めて覇者になった。
恵王閬(釐王の子)
大夫の辺伯ら5人が乱を起こし、恵王は都から逃れた。
荘王の子が王と立ったが、鄭・虢の君が殺し、恵王を迎えた。
斉の桓公に伯(覇者となったこと)を賜うた。
襄王鄭(恵王の子)即位32年
鄭と対立し、戎翟の力で鄭を討ったが、腹違いの弟の叔帯が戎翟と組んで反乱を起こし襄王は鄭に出奔した。叔帯が王位に就くも、晋の文公の力によりの叔帯を誅した。
頃王壬臣(襄王の子)→匡王班(頃王の子)→定王瑜(匡王の弟)→簡王夷(定王の子)→霊王泄心(簡王の子)
景王貴(霊王の子)
死後、王位をめぐり、それぞれの子ども達で争うこととなる。
悼王→敬王(ともに景王の子)
敬王 即位42年
晋の力で即位。景王の子がまた反乱を起こす。
楚が陳を滅ぼす。この敬王の時代に孔子が死亡した。
元王仁(敬王の子)
定王介(元王の子)即位28年
 韓・魏・趙(三晋)が智伯を滅ぼして、その地を分けた。
哀王(定王の長子)即位するも弟叔に襲われ殺害された。
思王(哀王の弟)即位するも小弟の嵬(かい)に殺害された。
考王(小弟嵬)
考王は、弟を河南に封じて桓公とし、周公の官職を継がせた。この流れがのちに東周の恵公とつながり、それで東・西の二周ができた。
威烈王午(考王の子)
九鼎が震えた。韓・魏・趙を諸侯にした。
安王驕(威烈王の子)
烈王喜(安王の子)ここから秦との関係が
顕王扁(烈王の弟)
秦の孝公に伯をおくった。
晩年、秦の恵王が王と称し、諸侯もみな王を称した。
慎靚王定(顕王の子)

王赧(たん 慎靚王の子)
 周を東と西に分ける。西周に遷都した。亡くなると周の民は東方に逃げた。
当時は、東周が強勢で、以後、周というと多くは東周のこと

これ以降が、史記では分かりにくい
秦が白起の活躍などで韓・魏などを圧迫して領土を拡大していく中、蘇代、史厭、蘇厲、馬犯などの計略で、周を保とうと努力する。
秦が周攻めを、周最(しゅうしゅ 周の公子)が周は天子の国ですから、攻めれば評判で天下をおそれさすこととなりますと止める。

西周は秦に背き、諸侯と合縦して秦を攻めるも、秦の昭王の逆襲で、領地領民すべてを秦に献上した。秦が九鼎宝器をとった。

最終的に、秦の荘襄王が、東・西周を滅ぼし、周の帝祚がことごとくほろんだ。

司馬遷
学者はみな、周が紂を討って洛邑にいたとしているが、そうではなく、周は豊・縞を都としていた。
幽王のときに、犬戎に敗れて、東の洛邑に遷都した。
漢が興って90余年、漢の武帝が泰山に封じようと河南に行ったときに、周の後裔を探し、子孫の嘉に地を与え、子南君とし、先祖の祭祀を奉じさせた。

●雑感
・黄帝に連なるものであるということ、そして不思議な生誕伝説があることは、先の時代と同様に出てくるもので共通している。
・周は、臣下として農業生産力向上の役を果たすことで実績をあげるように農業が重要産業で、相変わらず他の産業があまり見えない。
・徳、義、天命がキーワード、前王朝を倒すには、やはり天命が必要で、天を意識していることが分かる。
・王赧のところからが正直、西周、東周の関係がどうなのか理解できなかった。