ヘレンケラー(1912年11月)

気になったので「ウィキペディア」でその後(映画の後)のヘレンケラーを調べてみた。

1900年、ラドクリフ女子大学(現在のハーバード大学)に入学。

1902年、『わたしの生涯』を出版する。
疲れのせいか、サリバンの目の病気が再発。
ポリートンプソンが手伝い(後に秘書)として、ヘレンとサリバンのもとで働く。

1936年10月20日、サリバン死去。
二人の親交は師弟として友人として生涯続いた。
サリバンは、岩橋武夫からの来日要請をためらっていたヘレンに「日本に行っておあげなさい」と遺言した。

1937年、トンプソンとともに横浜港に到着日本各地を訪問した。
この来日で秋田犬を所望し、後に2頭を贈られる。(約4ヶ月の滞在)

1948年8月、2度目の訪日2ヶ月滞在して全国を講演してまわる。

1955年、サリバンの伝記『先生』を出版。3度目の訪日。
訪日の理由の一つは’54年に没した岩橋武夫に花を手向けるためであった。
ヘレンは空港で岩橋の名を叫び、岩橋の家では泣き崩れたと言う。
(ヘレンは人情に厚い人であったと思われる。)

1960年、トンプソン死去

1968年、ヘレンケラー、コネチカット州、イーストンの自宅で死去、87歳没。
ワシントン大聖堂で葬儀が行われ、地下礼拝堂にサリバン、トンプソンと共に葬られている。

ヘレンは「三重苦だったと言われているが、発生に関してはある程度克服した。

ヘレンの妹の孫によれば、抑揚はないものの話すことが出来た」と言う。

ヘレンの恋。
秘書で元新聞記者のピーター、フェイガンと相思相愛になり、婚約までしたが、ヘレンの家族の反対に遭い破談させられた。

特に母親は労働運動をしていたピーターを嫌い、ライフル銃を向け「一生近づくな。さもなくば射殺する」と脅迫した。

ピーターは別の女性と結婚。一女をもうけたのち没した。

ヘレンもこれが最初で最後の恋愛となり、生涯独身を通した。

※なんとも残念でしょうがない。三重苦を背負ったヘレンの生涯ただ一度の恋が実らなかったなんて悲しすぎる。

※尚、1955年5月沖縄にも来ていて映像も残っている。

ヘレン、1880年6月27日~没1968年6月1日(87歳没)

サリバン、1866年4月14日~1936年10月20日(70歳没)

ヘレンケラーとサリバン先生は最近忘れられようとしているが、再評価される時が来ると思う。

サリバン先生とヘレンは、ヘレン7歳サリバン20歳の時出会ってから50年に渡って師弟としてある時は友人として生涯、親交を深めた。

お二人のご冥福をお祈りする。