さっき車を運転していて

ふと思ったんだけれど、



人生の被害者的意識は、

もろに現実に反映される。




人生で色々なことが起こるのは当たり前で、その中身は人それぞれで、偶然的な出来事が多いけれど、



それを被害者的意識でみていると、

自分の人生は自分の敵で、

なかなか苦しいものになる。



アウシュビッツの強制収容所収容されていたときの体験を、心理学者として記録したヴィクトール・E・フランクル氏の『夜と霧』の中に、


私たち一人一人は、どんな時も人生から期待されている存在であるっていうような内容が書かれてる。



もちろんナチスの被害者であるのは間違いではないんだけど、被収容者として被害者的意識で生きるのか、それともそれでもこの人生に何か期待されている協同者意識なのかで、見えてくる景色が変わってくる。



心理学者の視点で、自分の「今」の経験を観察して、それを世に残すことを、人生から期待されていることと自分で定義した。



そして、その意味を共に収容者で過ごす人たちにも、伝えて励ましていた。



人間はさ、

素晴らしくもありえるし、

残虐でもありえる。



そんな人間同士が住む社会だから、

自分の意向とは違うことは起こりうる。



それでもその時に、

どんな自分で在れるかは選べる。



選べるって、

とてもパワフルで、

どんな些細なことでも

選んでるという感覚は

自分の力を取り戻すのに役立つ。



選べないと思うと、

人は被害者的な意識になる。



人生と協力するんだな。

人生の投げかけに挑む。



人とか社会に挑むとかじゃなくて、

人生に挑めたら、

どんな人生だってドラマチック。



そして、

死はダメなこと、

敗北という価値観は、

さっさと捨てといた方がいい。

もちろんとても悲しいことではあるけど、それでその人生が否定されることはない。



人生はいずれ終わるし、

敗北やダメに向かって生きてるわけじゃない。

死ぬまで自分の人生を生きるだけだから。



さてと、

友のお見舞いに行ってきます。