誰かのことを表現する時に

「友だち」って言葉を使うと、

私の中で何かがハッキリする。



悲しいかな…

「友だち」ではたくさんの違和感を含み、ほとんどか知り合いレベルだと気付く。



これはその人がどーこーではなく、

私の中の安心のレベルなんだろうと思う。



実は、

自転車で3分の距離に

親友と呼べる友が住んでるんだけど、



昨日、4〜5ヶ月ぶりの再会。

子育ての時期というのは、

本当それぞれに忙しいんだなと、

つくづく思う。



頻繁に連絡を取り合うわけでもないけど、

必要があればいつでも駆けつける。

お互いにとっての存在の安心。



いてくれるだけでいい人。



彼女と話すと、

私の全てが許容された気持ちになる。

20年以上の付き合いだから、

馬鹿げた思い出話もたくさんあるし、



あと、なんとも、

「大事な価値観を共有している」

というのが、わかる。



お互いに、

お互いを説得する必要がない。

探る必要もない。



素直な気持ちの「吐露」で充分伝わる。



こーゆー関係って、

作ろうと思ってできるものでもなく、

本当にさまざまな偶然と

時間積み重ねの賜物だと改めて思う。



生きてる意味ってあるよな。

知らず知らずのうちに、

自分じゃない誰かとこんな風に思える関係を築けるんだからさ。



私はどちらというと、

生きる意欲のさほどない方で、

かと言って死にたいとも思わなくて、



だから、

夢に向かってGO!なんて

思ったこともなくて。



それがダメなんだって、

そんな自分はダメかもなって

思ってた時期が長いけど、



私にとって

生きてる醍醐味は、

掴み取るものの方にはないようだ。



たまに出てくる、

自分が大事だと思う

価値観や人生観に基づいた

「爆発的な意欲」や

「反骨精神」以外は、



私はどちらかと言えば、

後ろ向きに生きてるんだな。



別にそれが悪いわけでもないんだよ。



こんな私だから、

理想的な大人像、美しき母親像に沿って発する言葉の数々が上滑りまくる。



息子はお見通しだ。



自分ができもしないことを、

子供にあれこれは言えない。



でも、

自分のことを大事にしてくれる人であり、

自分もその人のことを大事に思える人に息子も出会えたなら、



私にも、

上滑りしない何かを

伝えられるかもな。



「友達を大切に」とは、

本人がそう思えて初めて機能する。



私も40で前でこんなこと思うんだもん、

子どもはもっと自由でのびのびとしてていい。



出会え時は出会えるし、

前のめりじゃなくたって。





つぃえみ。