ERINAさんに以前、
死について語ったりできる
オンラインサロンを作って欲しい
なんて、お言葉を頂いていた。
ずっと脳裏にはありつつ、
なかなか畏れ多くてできないのです。


お世話になっている方、
ご本人からの体調と余命の報告を
受けられたというERINAさんのお話。


以下ERINAさんのブログの言葉を。
 ↓ ↓ ↓

目の前に余命を告げられる人がいる時には



何からどう話していいか、

どのテンションで話すべきか、



分からない。



死を前にしたとき


その人の価値観

人生観

宗教観


どの価値基準をどこまで持つのか


共通言語を探す。




私は何も出来ない。今なぜこの余命という言葉を聞いたのか。




大切な人から告げられた
命に関わる病や余命。



気の利いた言葉なんて出ない。


1分があれほど長いのかと
思うほどの苦しい沈黙。


私の経験上、
信頼している人であり、
この事実に耐えうる強さを持つと思える
大切な人にしか、
こういった話はしないもの。



話している側も、
相手の苦しさや居た堪れなさを
理解した上で伝えたかったのだと思ってね。



とって付けたような
気の利いた言葉なんてないんだよね。
何ならこの沈黙が想いそのもの。




言葉よりも、
沈黙の方が多く語る瞬間ってのがあって、
人のこころというのは伝わっている。


だけど、
沈黙に耐えうる度量がいる。


今、お葬式の司会やアテンドの仕事をする中で、よく思うんだよね。もちろん自分が使う時も。


お悔やみの言葉の存在に、
どれだけ私たちは助けられてるか。
それは大切な人を失った人を
目の前にした人がね。


この定型文がなきゃ、
みんな言葉が出てこないし、
ご遺族の悲しみを目の前に、
自分のこころが耐えきれないの。


本当のところは、
言葉にならないほどのものを感じていて、
定型文でもないと出口がない。


沈黙する勇気って、
とても大切だなぁって思う。


がん患者さんが集う場を作っていた時、
何度も居た堪れなさを感じる場面があった。
自分の無力さと浅はかさを、
全身で受け取らなきゃいけない場面がね。



でもね、
これはどこまでいっても
私自身の問題なの。



どんなに相手が不憫に思える状況でも、
素直なコミュニケーションを
取れる自分であるか。


伝えてくれたその人を信じて、
その人が語る言葉にジッと耳を傾ける。


それを聴いていて、
自分の感情が揺らぎ、
涙が出てきてもいい。


ただ気をつけなければならないのは、
こちらの「不安」による感情を相手にぶつけないこと。「不安」は自分で引き取るものだから。


今ね、コロナもあって、
医療現場で働く方々は、そうでなくても緊張を強いられる環境の中、更なる緊張を強いられていると思う。



ツラくて苦しい状況の人と、
時間を共にするって、
並大抵のことではない。
さらに、やらなきゃいけない業務が多忙を極めている。


だけど、
医療現場に立つ人もひとりの人間で、
みんなと同じだけ感情だってある。



共感するって、苦しいのよ。


冷静な判断が必要だから、
個人的な感情を脇に置くっていうのは
医療の現場では当たり前なんだろうけど、
そうでもしないと、


ケアする側の心がもたない。


ってのもあるんだよね。
だから、私は医療現場の方に共感は求めなかった。患者の気持ちを全て受け取ったら、身が持たないよ。だからね、私は患者側の人にも自分と対話する時間、自分の不安や悲しみを受け取る時間を作ってもらいたいなって思う。



私ががんの治療をしていた頃、
父の友人も突然がんがわかり、
余命宣告を受けた。


お見舞いに行った父にそのおじちゃんは、
「おい、俺死ぬってぞ」って言ったんだって、父は私に話をした。


父はその瞬間、
さぞ言葉に詰まり、困っただろうなと
私は想像すると同時に、


「おい、俺死ぬってぞ」の後に続いただろう、そのおじちゃんの言葉を聴く人が居たらいいなと思った。


それが私の活動の原点だった。


なかなか聴くのはキツいよね、
だって何にもできないっていう
無力感とセットだもの。


これがいい、あれがいいと、
こちらの焦りや不安や居た堪れなさで、
色々薦めたくなる衝動もある。


だけどね、
受け手側からすると、
選択肢が増えすぎたりね、
断ることもかなり負担なんだよね。


相手が良かれと思って、
自分の事を思って薦めてくれるのもわかってるから、尚更心労となる。


だから、
衝動をグッと引き取り、
自分と対話する。


ただできることって、
相手の言葉に耳を傾けることと、
そばにいること。
これは物理的な「そばに」だけじゃなく、
精神的な「そばに」も含む。
特にコロナ禍なんてなおのこと。


私も、
言葉を失うくらい、
衝撃で悲しいよ。ってのは、
ちゃんと伝わってるものだから。







そんでね、
命とか死ってのを
一括りにしてしまいがちだけど、


私の(一人称)
あなたの、または大切なあの人の(二人称)
誰かの(三人称)


ちょっと正式な使い方ではないかもだけど、要は自分・自分と親しい誰か・知らない誰かってことがいいたい。


で全然違うものだったりする。
同じようには考えることが難しい。
全く別の視点が生まれるから。


考える機会が少ないことだし、
できれば考えずにいたいことでもある。


でも、ERINAさんのように、
自分の中の動揺も受け取りながら、
それぞれの命や生きること死ぬことを
見つめてみるって、
本当に大事だなって思う。


私はそんな風にいつも
まっすぐに言葉にするERINAさんの
在り方が好きだなぁと感じます。



齋藤智恵美