エリンギ熱気球プロジェクトの中で、

クラファンの文章を

書いてくださっている

えりりん先生へお渡しする

熱気球体験の文章も兼ねて

ブログにも綴っておこうと思って。

 

 

とは言え、

約1カ月半くらい経ってしまったから、

ちょっと薄れてしまっている部分はある。

 

 

だから、

今感じるものを描けたらいいなと。


進めているエリンギ熱気球プロジェクトは、こんなに可愛いエリンギなのです✨

 


私、物理的に”いのち”を

かけてやることが、

けっこう好きなんですよね。

 

 

ちゃんとしたパイロットさんの

操縦による熱気球体験は

危険ではないけれど、

 

 

簡単に言ったら、

風船にカゴをつけて

熱の力を借りて空に浮き上がるわけで、

いのち綱的なものはないじゃん。

 

 

風船から空気が抜けたら、

もう静かに落ちていくしかない。

 

 

その風船とカゴの

なんともアナログな乗り物に

乗っかったら、

あとは身を委ねるしかない。

 

 

熱気球体験の時に、

パイロットの今村辰ノ助さんが言っていた。


 

 

平和な場所でしか、

熱気球は飛べない



 

悪意を持って

風船、バルーンの部分に、

刃物のついた弾でも打たれたら

もう後は落ちてくのみなわけ。

 


 

超アナログで無防備な乗り物

 


 

世界の中で、

熱気球を飛ばすことのできる場所は、

私が想像しているよりはるかに

少ないのかもしれない。

 

 

熱気球が飛ぶ

平和な世界が広がっていくことも、

熱気球のパイロットさんの

夢の一つなんだろうな…と思う。

 

これはトルコの熱気球大会の画像。

どこからか引っ張ってきて、待ち受けにしてます。

 

熱気球の体験は

組み立てから飛行、片付け、

火の神様への感謝で終わる。

 

 

当日飛行を共にする方々と

一緒に気球を組み立てていくんだけど、

驚くほどシンプルなんだよね。

 

 

ここをキチンとやっとかなきゃ、

命がないなってのが、

一目瞭然で誰の目にもはっきりわかる。


その部分を担当するのが、

大人だろうが子供だろうが、

身体が弱かろうが強かろうが、

責任の重さは変わらない。

 

 

私はこの感覚って

すごく大切だなって思う。

自分の存在価値を認めさせようと

躍起になるよりもよっぽど、

自分の存在の意味を感じる。

 

 

命って

いつまでも続くって思ってるけど、

終わるからね。時に簡単に。

その重さを感じると思う。

 

 

それから

カゴに繋がれたバルーンに

空気が注入されていく。




実は私にとってここに原風景がある。

もうかなり前だけど、

重度心身障害と言われる

身体と知能に重度の障害を抱えた方々と一緒に過ごした日々の中にその風景はあって。

 

 

五感を大事に扱って過ごす

日々の中で見た

あの風景、あの感覚。

 

 

大きなバルーンに風が入る音、

カラフルなバルーンが音を立ててなびくさま。

大きさと色のインパクト。

 

 

見て、聴いて、触れて、感じて。

その場に居るあの臨場感。

そこからくる高揚感。

 

 

そういった場を共にした時、

私は何度も何度も目にした。

 

 

自分の意思では自由にならない

不自由な身体を駆使して、

車いすから飛び出てしまうほど

反り返って喜びを表現する姿。

 

 

言葉にならない

奇声のようにも聞こえる喜びの声。

 

 

もちろん中には、

そういった大きな反応を

示さない方もいるけど、

必ず何かを感じている。

 

 

周囲の喜び、興奮、高揚感、

ってのは必ず伝わっていて、

私たちの分かる形での表現がないだけ。

 

 

全ての感覚を澄まして

共に過ごしていたら、

何となくわかる。

 

 

その感覚を一緒に体験した喜びが

私の身体には、

深く深く根付いている。

 

 

だから、

今でのあの喜びの感覚を

すぐに思い出せるし、

あの感覚をこの人生で

何度でも味わいたいと思う。

 

 

感じることに、

ハンディというのはあんまり関係ない。

”感じる”という点においては、

そこに垣根はないから。

 

 

私はこの過去の原風景、

体感覚があるから、

そういった体験を届けることに

情熱が生まれてくるんだと思う。

 

 

そしてね、

熱気球が空に浮かんだときは

何を感じていたかと言いますと、

空においては

人間はどんな時代を経ても

無防備な生き物だなってこと。

 

 

静かに浮上していく熱気球に

身を委ねているとね、

 

 

思いのほか、

時間とか速さとか、

そういった概念は吹っ飛んでいく。

 

 

浮いてく時は、

エレベーターよりも揺れないし、静か。

ぼんやりと空や地上の景色を見ていたら、

もうあっという間に

 

 

私たちが普段「空」としてみている

空間の中にいる。

 




 

概念の中に入っていけるんだよね。

「空」という概念の中に。

 

 

下から見上げる人にとっては、

私たちの乗った熱気球は

空の景色の一部。

 

 

おもしろい。

 

 

でね、そこまでいくとね、

もう異次元の世界。

私たちが出す音以外はないの。

ある高さまで行くと、

鳥の声さえ聞こえないから。

 

 

人の心が

無の境地に達したら、

きっとあんな感じなんだろうなと思う。

 

 

私のイメージは

あの心電図の波形が、

ぴーーっと一直線になった感じ。

 

 

「ない」

 

 

そう、ないの。

それは「ある」を体験してるから、

知り得ることなんだよね。

 

 

この世の中をグル――――っと見回しても、

「ある」しかない。

 

 

基本、

どんなに優れた環境であっても、

「ある」だから、

 

 

地上には「ない」を

体験する機会がないんだよね。

 

 

だから、

心電図の波形をイメージしちゃうのかもな。

 

 

そして、

空になり、風になった瞬間、

風という概念はぶっ飛んだ。

私が知る「風」は私に何かしらの

摩擦を起こすけれど、

 

 

そこには何の摩擦もなかった。

動いてないんじゃないかと思って、

地上の景色をのぞき込んでみたら、

驚くほど景色は変化してる。

 

 

パイロットの辰之助さん曰く、

時速20~50kmで気球は進むんだそう。

 

 

これまで知っていた

体感覚とのズレに

少々困惑しつつ、

”風になる”ということは

こういうことなのかと知った。

 

 

これってさ、

私たちが〇〇になりたいって思った時と、

実際に〇〇になった時の感覚に似ているんだろうね。

 

 

なってしまったら、

そこに対する憧れという摩擦は起こらないからね。

 

 

 

ところで、

空を飛んでいるときは

そんな静けさの中にある熱気球だけど、

陸地から離れた熱気球の上では、

私たちの命は違いようがないよね。

 

 

不確定な寿命の長短も。

丸裸なひとつの命ってだけ。

 

 

そして、

感覚器の優劣はあれど、

感じるという点では

違いようがないんだよ。

 

 

見える景色、

聴こえる音、

感じるものは違うかもしれない。

それは見えない聴こえないも含め。

 

 

だけど、

人間の感情というのは、

等しく与えられている。

そこは誰にも邪魔できないのだから。

 

 

大きな風船に括りつけられた

丈夫なかごに乗る。

 

 

言葉でいったら単純だけど、

この中には日常の中では

なかなか味わえない

あらゆる体験が組み込まれている。

 

 

そんな風に思う。

今は色々便利だけれど、

 

 

この世界の中で、

肉体というひとつの生命を受け取って、

生きている今だからこそ

”体験してほしい”



 

 

今回のエリンギ熱気球プロジェクトは、

ちょっとふざけた夢を

大人が本気で叶えていく姿と、

体験を届けることが

大きな柱になるかなって思ってます。

 

 

いつの時代になっても、

人間は空への憧れは尽きないね。

 

 

 

さいとうちえみ