私のブログに立ち寄って下さってありがとうございます♪
ちょっとした自己紹介をさせていただきますね!
☆プロフィール☆
齋藤智恵美(さいとうちえみ)
1982年3月28日生まれの38歳
兄弟は年子の兄
血液型はB型
8歳になる息子と二人暮らしのシングルマザー
長野県松本市在住
☆幼少期☆
「気の強いおてんば娘」という言葉で表現してもいいほど、常に兄に対してライバル心を抱き、兄に負けるものかー!!と張り合ってきました。保育園児の頃には、同級生の男の子を殴り、鼻血を出させてしまうほどの乱暴者で、我が齋藤家の兄弟はドラえもんの「ジャイアン」にみたいな存在だったんじゃないかと思います。
実は重い小児喘息があり、病院通いが当たり前、入院もしていたことがありました。でも、健康優良児っていう自覚しかなかった(笑)だからスポーツもガンガンやってました。
☆アイデンティティーの芽生え☆
小学校→小さな反逆者。先生の言葉に納得できなかったり、先生の精神の不潔さ?を察知すると、断固としてあらがうタイプだったから、先生にとっては本当に扱いにくいタイプだったと思います。小学校までは勉強しなくてもそれなりに出きてしまったので、先生に何かかわいく質問することもなかったな~
中学生→勉強に困らないチンピラ。勉強についてはすごくできるわけではないけど(教科によって全然ダメ)、それなりにできちゃうタイプで、ここでも反逆者精神発動・・・数学で、すでに作られた方程式を使うことが許せなくて、方程式を使わずに解くような捻くれた子でした。今思い出してみると、「好きなことしてお金稼げたらいいじゃん!風俗で働けばいいじゃん♪」なんて、夢のない子だったな。
高校生→初めて出会うたくさんの人に困惑。引きこもり傾向発動。
小中までは、極々小さな学校でお山の大将のように生きてきた私。実家が山奥だったのもあり、高校から一人暮らしで、それまでの10倍以上の生徒数がいる進学校(一応)へ行くことで、それまでの私のアイデンティティーは崩壊しました。自分を抑え、人に嫌われないように、言動をコントロールするようになりました。それでもたくさん友達ができて、それなりに楽しい生活を送っていたけど、「進学なんて死んでもしたくない・・・」それほど、集団生活に疲弊して、約95%以上の人が進学する中、フリーターを選ぶことになりました。
社会人→子供のまま、興味の赴くまま
職歴でいうと・・・薬局が経営する化粧品店の販売員→イギリスへ現実逃避(障がい者入所施設でボランティア)→日本で障がいを持つ人の就労施設の職員→薬品卸業の倉庫の仕事→リラクゼーションサロンの仕事→出産→障害児の放課後デイの仕事→保険会社外交員→ホームヘルパー(お年寄りの訪問介護)→父の会社の事務兼、個人事業主。
わー色々やってきたなあ~。介護やリラクゼーションの仕事は、私の性格にはあっていたのかな・・日々興味を持って取り組めたけど、販売や営業の仕事はしんどかったな~罪悪感ばっかり発動してたな・・・。
出産、子育て&乳がん経験
26歳から29歳頃まで3年以上同棲していた彼がいて、物静かで優しくて人間として信頼のおける人だったんだけど、私には耐えられない、結婚に踏み切れないセッ☆スレスという大きな悩みがあって、「したい」と迫る私に彼がいった言葉「外でやってきていいよ」が大きなきっかけとなり、私は彼との同棲を解消し、既婚男性とお付き合いすることになる。まずはセッ☆スを満たすこと、私の悲しいほどにボロボロになった女性としてのプライドをどうにかしたかった。その関係で、私は彼との子供を身籠る。数年前の私の未来日記に描かれた「6月24日男の子が生まれる」を現実化するように、息子の予定日は6月24日だった(実際に生まれたのは6月15日)。生む、生まない。確実に婚外での出産が決まっていた私にとって、本当に難しい選択だった。でもね、祖母のひと言「幸せになれないからやめた方がいいと思う」で心が決まった。幸せを誰かが決めることなんてできない。息子自身が決める。
そういった意味で、私は息子を信頼&尊敬している。
1歳半まで実家に住まわせてもらい、共働きの両親に代わって家事をして過ごしたんだけど、仕事を見つけやすい市街地に引っ越し、息子との二人暮らしを開始した。
で、その数か月後、乳がんが見つかり、1年半に及ぶ治療をすることになる。この時に勤めていたのが一番キツかった保険会社の外交員の仕事・・・。ほんとね、もちろん抗がん剤治療だって大変だけど、会社に行きたくなさ過ぎて毎日泣きながら、吐き気を覚えながら行ってた
辞めたいが通らないんだもの。死ぬかと思ったわ。。
がん哲学の活動。
私はこれでこの会社を辞められる!って思いの方が強かったから、がんや死に対する恐怖や不安はあまりなかったんだけど、もっと自分を幸せにしなきゃ!って気持ちは強かった。
上司の「そんな体で辞めて誰が雇ってくれるの❓」←今考えるとかなりパワハラwww
に火がついて、経験が世の中の財産になることを証明してやるわー!!って思って、私がまず始めたのは、起業塾のような集まりへの参加だったんだけど、お金とがん患者支援が私の中でうまく結びつけられなかった。で、その後に出会った順天堂大学名誉教授樋野興夫先生の「がん哲学」という思想。一気に火が付いた私は、自分の住む松本市でがん患者さんが集い語りあう「松本がん哲学みずたまカフェ」を月に1回ボランティアで開催するようになる。この出会いと活動が、のちに出演することになる
ドキュメンタリー映画『がんと生きる 言葉の処方箋』に繋がる。