「もっと自由で広い世界へ、私があなたを連れ出してあげるね」

ふと、そんな言葉が思い浮かんだ。



誰かの期待に応え、
誰かの要望に応え、
誰かの笑顔を喜び、
誰かの幸せを叶え、
誰かの幸せを祝福する。


それが自分の幸せに繋がるものだと信じて疑わなかった。それが人生の喜びであると信じて疑わなかった。



その誰かに、
ちゃんと自分も入ってた?
自分だけ仲間はずれにしてない?

例えば、誰かを自分に置き換えるとこうなる。

自分の期待に応え
自分の要望に応え、
自分の笑顔を喜び、
自分の幸せを叶え、
自分の幸せを祝福する。


違和感がある?
罪悪感を感じる?
わがままだと思う?


考えてみると、
その誰かの中に、
自分を入れない限り、
私の期待や要望、
幸せは誰かの力に
依存しなければいけないことになる。


他の誰によってしか、
叶えられないことになる。


誰かのことを自分が叶え、
自分のことは誰かが叶えることになる。



この構図が、
いつから道徳的だと、
優しさだと、
言われるようになったんだろう。


ん〜。悩ましい真顔


昔、何かの絵で見たことがある。

異常に長い箸をもった人たちが食事をする風景。長い箸だから、自分の口に運ぼうとすると無理がある。変な格好にもなるし、険しい顔で食べものを口に運ばなければならないし、奪い合いになるという我欲を汚らわしく感じる絵。


その対照的な絵は、食べさせ合う風景。長い箸は誰かの口に食べものを運ぶのにはピッタリで、お互いにニコニココミュニケーションを取りながら、楽しく美味しく食事が出来るさまが描かれていた。


どちらも自分の食べたいを叶えてる。
叶え方の方法が違うだけ。
自分だけの願いだけを叶える方法なのか、誰かの願いも一緒に叶える方法なのか、その違いだけ。

そもそも誰かと自分が、
なぜこんなにも分離した感じになって、
あたかも両者の幸せが両立できないような錯覚を起こすようになったんだろう。



人の優しさは標準装備。
人が誰かのことを大切に思うことも標準装備。


人って何もしなくても、
そんな愛を持って生まれている。


それなのに、
さらに、

誰かの期待に応え、
誰かの要望に応え、
誰かの笑顔を喜び、
誰かの幸せを叶え、
誰かの幸せを祝福する。

そんなことを自分に要求する。
何でいつからそんな風に考えるようになったんだろう。

要求される時って、

自分はできてないから、
不足だから、

と無意識に思ってることなる。

そこにあるものを
わざわざ要求なんてしないもんね。


生きているだけで、
あなたは誰かの期待に応えていて、

生きているだけで、
あなたは誰かの要望に応えていて、

生きているだけで、
あなたは誰かの喜びとなり、

生きているだけで、
あなたは誰かの幸せを叶え、

生きているだけで、
あなたは誰かの祝福となる。


だって、
誰かを大切に思う気持ちは、
人間の標準装備なんだから、


無意識でも、
人は誰かのために動こうとする生き物。
困ってる人が居たら、
助けたくなったり、
助けられなくても、
モヤモヤしたりするもの。

泣いてる人が居たら、
もらい泣きだってしちゃうもの。


だから
幸せにしたい「誰か」の中に「自分」という存在を入れることを意識した方がいい。


自分が満たされたら、
もっともっと、
誰かの幸せを膨らませられるはず。


誰かに満たしてもらうのを待つ前に、
自分を満たしてあげていい。

他の誰かが満たされないことに、
罪悪感を感じなくていい。

ペースはそれぞれ、
いつか満ちてくるから。

そうそう。
冒頭の「もっと自由で広い世界へ、私があなたを連れ出してあげるね」って言葉は、誰かに向けているようで、私に向けた言葉だったんだよね。

そこに一緒に誰かが居たっていいしね。




さいとうちえみ