昨日、用事があって

実家のある乗鞍高原へ行ってきたんだけど、

 

 

ついでに近くの

「梓水神社」

を参拝した。

 

 

参拝っていっても、

小中学校の頃の通学路。

特別感は何もない。

寂れてるしね。

 

梓水神社は、

北アルプスの乗鞍岳が

ご神体のようになっていて

 

その力強さは

いつもなんだかんだ感じている。

 

 

白い封筒に入れたお札を

賽銭箱に入れて

我欲いっぱいに祈った。

 

つもりだったのに・・・。

 

 

頭の中に浮かんできたキーワードに

驚愕することになる滝汗

 

 

 

 

「億のお金を動かし、財団を作る」

 

 

 

 

なになになに・・・?

こ、こ、怖いんですけど滝汗

 

 

 

そもそも財団ってどんなん?

日本財団の車は見るよ。

福祉施設などの運営に役立っているよね。

そのくらいは知っている。

 

 

 

でも、

財団を作るって

私の現実の世界からは

ほど遠すぎる・・・。

 

 

 

自分の生活でさえ

ままならないのに・・・(笑)

 

 

混乱する笑い泣き

 

 

 

 

 

確かに混乱した。

でも同時にお金を流す先を

イメージする自分もいた。

 

 

 

精神や体に障害を持つ人、

病を持つ人

なかなか家から出られない人

いのちを終えていく人

 

 

1人の人ときちんと関わることには、

時間も労力もかかる。

時間も労力もかかるということは、

誰かが金銭的に、体力的に、

その役割を担うことになる。

 

 

 

時間がかかるかもしれない

労力もかかるかもしれない

でもね、

そこに見える

本来のその人の姿が

その姿のまま

表現することを取り戻したら、

それは本当に

何事にも代えられない

すごいことだと思っている。

 

 

 

障害とか、

病気とか、

引きこもっているとか、

 

 

そんなのは関係なくなる。

その人は、

ただの障害を持つ人でも、

ただの病気を患う人でも、

ただの引きこもりの人でもなく、

 

 

障害、病気、引きこもり、

とひとくくりにされた表現から、

飛び出て

「個」が輝きだす。

 

たとえ、あとわずかしか持たない命だとしても。

最期まで、その人という「個」の輝きは手放さない。

 

 

誰か一人でも、

時間と労力を使って、

その人と共に在る人がいれば。

気付こうとする意志があれば。

 

 

それを社会的な財力という力で、

実現したいのかもしれないなと思った。

 

 

社会保障とか、

相互扶助とか、

ともちょっと違う。

 

 

焦点は、

共通の課題を持つ集団や社会ではなく、

あくまでも「個人」。

 

 

マクロからミクロへの視点ではなくて、

ミクロからマクロへの視点。

 

 

1人の人間が輝けば、

必ず何かその人を取り巻く

環境、

人、

社会、

 

に変化が及ぶはず。

 

 

だから、

私はいつまでも

「その人」の

掛けがえなさにフォーカスしたいんだ。

 

 

すごい偉そうなことを書いちゃったけど、

そんな財団が

どんな風にして

どのくらいの期間で

実現できるんだろう。

 

 

今は想像もできないわ・・・笑い泣き

 

 

あ、でも財団の「財」は

お金だけに限らないのかも。

 

 

訓読みだと「たから」なんだ!

 

初めて知った(笑)

 

「Chiemi財団」設立か・・・笑い泣き

 

その後、訪れた

「飛騨千光寺」の世界平和瞑想センター

虹色のカーテンが映ってたよ♡

 

 

さいとうちえみ