あと137日!

2016年1月26日(火)東京
松原靖樹講演会
『千里の道はここから始まる』

{80DA3A1F-1DC5-4763-BEF2-3879C5B1155C:01}


 チケットお申込みはこちらhttp://ws.formzu.net/fgen/S79781467/


   はろー
Let's read with me♡の時間です

講演会に向けて松原靖樹氏が
コラム1000本ノック中

一緒に少しずつ読んで行こ~


--------------------------------------------------------------------------


じゃ、今日の10コラム行くよ~

⬇︎⬇︎⬇︎

291から320まで「全体性」について。
ここからは「告白」について。


【千式】悪い経験 0321

過去にいい思い出はない。悪い思い出ならたくさんある。その経験と記憶もまた、オレ自身を成り立たせる重要なパーツなので書いてみようと思う。
過去いい思い出がないのは、うまくいったことは自分にとって「当然」のことであって、喜ばしくワッショイするものとは思っていないからだ。だから強みも成果もその瞬間は嬉しくてもすぐに忘れる。人生視点だとそうなる。だから人に対しても強みや成果に瞬間驚くことはあっても、まぁそういうものだと思う。だから滅多に人のことを褒めない。そういう人だと信頼している。
逆に悪いパーツは、そういうことが当然である自分をなぜか当然にさせていない。ということは人生の課題は絶対にうまくさせない物事がなぜ当然な自分の目の前に姿を表すのか?にあるはずだ。それが目的ではないが、相対的に自分が進む道はそこから見えてくる。


【千式】母の系譜 0322

母親が精神を病んでいた。ついぞそういう診断を受けたことはないが、まぁそうだった。沖縄の出身で戦争を体験し、過去のことは語らなかったが今から考えてもトラウマがきつかったのだと思う。親は戦争中に死に子供の頃親戚の元で育った。戦時は看護婦のようなことをやり、そのままその仕事に就いた。戦後アメリカ占領下の沖縄を出て大阪の病院に勤めた。
それ以上のことは知らない。聞いたことがない。


【千式】父の系譜 0323

父は母より7歳年下で、大阪の病院で盲腸で入院していたとき、母と知り合った。
島根で生まれ3歳のときおぼろげに原爆のキノコ雲を見た記憶がある、広島からどんどん人が流れてきた記憶もあると言っていた。若い頃は少し易者をやっていたこともあるようだが、オレの記憶では広告代理店でサラリーマンをやっていた。中学に上がる頃から台湾とタイに行きはじめ、どういう経緯かはわからないが高校に入る頃にバンコクで独立して家に帰ってこなくなった。
母親との仲は幼少時から悪かったので帰ってこないこと自体は当然だと思っていた。


【千式】松原家 0324

父と母の記憶は喧嘩していたことしかない。平和でいい家庭だと思ったことは一度もない。母はトラウマと義務で生きていたし、精神を病んでいてそのとばっちりは毎日受けていた。子供の頃の記憶で言い争いをしなかった日は1日もない。
父はあまり自分がなく、自信もなく、なぜ母と結婚したのか不明だが、とばっちりをうけていたオレのことはよくかばってくれた。父が家に帰ってくると泣きつくことが多かったので、家には帰りたくなかったのではないかと思う。
父が家に帰ってきて嬉しい理由は、幼少時は本を買ってきてくれ、もう少し大きくなると蓬莱の豚まんかヒロタのシュークリームを買ってきてくれることだった。
つまり、今から考えると父当人が嬉しかったわけではなかった。


【千式】野菜は3倍でなく20倍 0325

母親の病的な精神はなかなかすごかった。子供の頃は気に入らないことがあるとマッチに火をつけて燃やすぞと追いかけられ、野菜が大事だと言ってラーメンの上に食べきれない野菜炒めが乗っていたり、ハンバーグが出るときは肉の3倍野菜を食べなければならないといって、10倍のキャベツの千切りが乗り、それを先に食べるとまた同量のキャベツが盛られた。
記憶にある限り1度だけ、中学の時に弁当を残して帰ったときはこれは何の嫌がらせで当てつけか、とキレられたことがあった。こういう話は今では覚えていないことも多いが、思い出せば目を丸くするような話が腐るほどカードとしてある。


【千式】監視下におかれていた 0326

そんな精神を病んでいる母親だったので、まぁ理解してくれることはなかった。よく見てはいたというか、監視はされていた。友達とマッチで遊んだ後の状態を見てタバコを吸ったと決めつけられ心からうんざりした。テレビを近くで見ると目が悪くなるということで、アニメの主題歌を録音しているときにテレビが近いと言われ、歌は台無しになった。心から監視と存在がうんざりだった。
こうでなければならず、子供もこうでなければならず、しかし自分がなく世間情報を守って生きていた。かなりそこに巻き込まれた子供時代だったと思う。


【千式】中学から高校 0327

中学になると母親の精神の病にも一層磨きがかかり変質的になってきた。口論は増え、毎日が生き地獄的な生活だった。まぁそれは幼稚園からだが。。高校に入るとバイトを始めたがバイト先に無駄な電話をしては文句を言ったりされていた。面目が立たなかった。
高校卒業とともに家を出たが、つまりは18年間一度も心休まる時はなかった。


【千式】一方で父親は 0328

一方で父親はどうだったのか。こちらは18で海外に出るまで概ね好印象だった。子供の頃はよく家にいた。本をよく読む人でオレもそれで本を読むようになった。日曜に一緒に本を読んでいるとき、何か話しかけようと思ったが話しかけるまでにどうしようか悩み、ものすごい時間がかかった。話さないこともあった。
一度母親の口車に乗って、親としてオレを叱ろうと思ったのだろうが、それを見て白けた。ことの善悪がわからない、アホに流される、父親もつまらない人間だったのかと思った。
今から考えると、軸のない迎合する生き方をしてストレスも溜まっていたのだと思う。


【千式】バンコクで父親と 0329

18で高校を卒業し、半年オーストラリアにいたがその後父親のいるバンコクへ移った。そこでトータル2年半過ごしたことになる。
自分で事業をやっていたが、どう考えても不備があり穴がある。慢心していたし、周囲のビジネス人間関係がダメすぎる大人に囲まれていた。慢心は過信となり、偉ぶるようになり、バカにするようになった。心はもともと弱かったのだと思う。
この父親の元にいてはいけないと思い、安月給すぎる金額を貯めてロンドンに行くことにした。


【千式】オレを超えてほしい? 0330

バンコクで父親の仕事を手伝っていたとき、50歳ぐらいの父親が言った。「オレの年には今のオレを超えていてほしい」それを聞いて思った。すでにオレは超えていますけど。実績や金で人は計れない。人間の器がある。器があればそれにあった結果は簡単に取れる。その発言をしょうもないと思った。



--------------------------------------------------------------------------

松原さん。
告白、読ませいただきました。
重要なパーツ、って思います。

   

今日もアクセスありがとう
金曜日の夜は好きです。
のんびりしようと思います


{27F578DA-79F5-4157-AF94-516BED7058C9:01}

松原氏の千式コラム1~500 のリンクはここから
         ⬇︎   ⬇︎   ⬇︎

【目次】千式コラム 前編(1~500話)

http://s.ameblo.jp/ym11/entry-12039376900.html?frm=theme