あと139日!
2016年1月26日(火)東京
松原靖樹講演会
『千里の道はここから始まる』
--------------------------------------------------------------------------
はろー
「Let's read with me♡」の時間です

講演会に向けて松原靖樹氏が
コラム1000本ノック中

一緒に少しずつ読んで行こ~

--------------------------------------------------------------------------
じゃ、今日の10コラム行くよ~

⬇︎⬇︎⬇︎
【千式】全体性への対抗手段 0301
なぜわざわざ足止め存在になる必要があるのか?(自分の足止めではなく、全体性のメカニズムに対する足止め)そのひとつの理由が超越才能になる。超越才能は自分がその力を持っていても「特に良くなく」「うまくいくとは全く言えず」「人からは決して認められず」「自分を生かさない」。
良くないというのは未知すぎて良さを判定する基準がなく、採用されないのでうまくもいかない。超越していて人は認めてくれず、それを駆使しても何で自分を生かしているか説明できる状態にはならない。
個人の中に全体性に対抗する手段の芽が埋もれているかもしれない。そのスイッチを押すとどうなるのか?にトライすることが独立した個人の力が拓く新しい可能性かもしれない。
良くないというのは未知すぎて良さを判定する基準がなく、採用されないのでうまくもいかない。超越していて人は認めてくれず、それを駆使しても何で自分を生かしているか説明できる状態にはならない。
個人の中に全体性に対抗する手段の芽が埋もれているかもしれない。そのスイッチを押すとどうなるのか?にトライすることが独立した個人の力が拓く新しい可能性かもしれない。
【千式】全体性の緻密 0302
考えてみると超越才能はほぼ全く発揮されず、仮に発揮できたとしてもうまく失敗するように背景が組まれている。そもそも超越才能があることをなかったことにする「自然放棄」が全体性によって個人に組まれている。だが超越才能を可能にしたとして、それも全体性に組み込まれた方向性かもしれない。超越才能を持ったまま死んでも、将来子孫か魂の系譜による転生で未来必要なときに生かされるかもしれない。つまり、将来のためのストックであり貯金であるかもしれない。
貯金に先に手をつけたところで全体性の手のひらの上の物事かもしれない。
全体性は人間個体が感知できないぐらいには完璧に作られている可能性もある。またはその網をくぐり抜けてもそれはオプションであり修正や方向替えがきく程度の些細なことかもしれない。
【千式】全体性を見分ける 0303
全体性は緻密に組まれている。個人でいうなら感情や思考も組まれている可能性が高い。物事でいうなら戦争や文明の発達も組まれている可能性が高い。全体性を探す。様々な分野から探すことができる。例えば転生回数5回目と4回目が圧倒的に多いのはなぜか?そうでなければ成り立たない何かがあるからではないか?と考えてみる。例えばリーダーというポジションはほぼ組織になんの影響力もないが、誰もが影響があり、責任があり、絶対になくてはならないと思ってしまうのはなぜなのか。不合理や不条理、歴史上なぜか続いていることや定期的に現れることが全体性に必要なパーツや現象である可能性は高い。全体性が向かう方向は誰にも知覚できないが、現象をよく観察すると個人を生かすために必要なことはいくつかわかってくる。
【千式】純性 0304
人は何も努力しなくても、特に考えずに漫然と生きていてもそれ自体が全体性に組み込まれている。その証拠に歴史上どの世界を切り取ってもそういう圧倒的多数の人に占められている。個々人を見ればドラマもあるかもしれないが、全体性や人類から見るとどこにでもあるような大したことのないできごとだ。恋愛をし結婚をし、子供をもうける。仕事をし収穫量を上げ飢えの不安をなくす。そのためにものすごく貢献する人もいるし、漫然と決まったことしかしない人もいる。そのどちらもが「特に考えず漫然と生きている」ということになる。
全体性を運ぶメカニズム、パーツとしてうまく機能している。このことを「純性」と呼ぶ。
【千式】純度 0305
純性とは全体性の役割を全うすることを指し、純度が高いというのは全体性の役割をそのまま果たす確率が高いことをいう。当然全体性の中には純正の高いものと低いものが混在していて、それを許すような作りになっている。むしろ「そうでなくてはならない」という可能性がある。純度は変えにくい。革新的なものを足止め的なものに変えることはほぼできないし、幸せで平和な生活を守る全体性の役割を性格上も能力上も割り当てられているものが全てを捨てて冒険に出るとは思えない。
全体性に反逆していてもそういう純性である可能性がある。今はまだないものをこの世に生み出してもそれが全体性の役割を果たしているだけかもしれない。そういう意味で純度は誰もが100%に近い。
【千式】純度を変える 0306
もし個人に、全体性の枠組みに対する可能性があるのだとしたら純度の%を自在に扱えることになることだ。人は必要があればこの%を変えられる。例えば今まで平和で落ち着いた暮らしをしていても、災害で全てを失い飢えるような状況になったとする。そのときに安定的な純性ではなく、サバイバルな自分が出てくることがある。自然放棄を取り戻すことがある。ただ、何かあったときは多かれ少なかれ誰でも純性の%を変えることができる。
何もない時に純度を変えるようになる。このイレギュラーも全体性に組み込まれているのかもしれないが、それでも個人の全体性支配へのひとつのくさびになる。
何もない時に純度を変えるようになる。このイレギュラーも全体性に組み込まれているのかもしれないが、それでも個人の全体性支配へのひとつのくさびになる。
【千式】人類に関わる者 0307
人間に大きく関わるものがいる。例えばどの国にも昔から「神様」という概念があり「いる」とされている。と、されているからには、何かその生物が干渉している関わりがあるはずだ。また古代から犬を飼う人間は多い。人間がいなければ犬はこんなに生まれていないはずだ。犬も人類の方向に何かの形で関わっている可能性がある。
神様には神様の、犬には犬の全体性があり人間のそれとは違う。それを探り知ることができれば、個人は人類の全体性からひとつ抜けた可能性を打ち出すことができるかもしれない。できないかもしれない。
神様には神様の、犬には犬の全体性があり人間のそれとは違う。それを探り知ることができれば、個人は人類の全体性からひとつ抜けた可能性を打ち出すことができるかもしれない。できないかもしれない。
【千式】別の全体性に影響する 0308
全体性へ違う布石が打てる可能性のひとつとして、神様の全体性、犬の全体性に何か影響を与える一手を打つ。これは超越才能を使わなければできない。個人がいくら可能性に挑戦してもそれ自体が想定内である可能性が高い。なら違う全体に別の影響を与える。
人類に関係のある別の全体性に何かの手を打つことは、その全体性に組み込まれているかもしれないし組み込まれていないかもしれない。仮に組み込まれていないのなら、別の全体性に与えた影響は人類の全体性にどんな影響を与えるのか?
人個人の可能性にチャレンジするのなら、これが最も大きな一手ではないか?と思っている。
だが実際には、全体性の速度を早め、もっとスムーズに進めることをやっているのだと思う。少なくとも自分と自分の周囲にはそれをやっている。結局は枠組みの中のできごとなのか。それがいいとも悪いとも言わないが、そうやって生きていき、子孫も組み込まれ、転生してもまた別の役割でそれをやるのか?
そのことに不満があるわけではないが、純性ではない生き方はないものか?と探ってしまう。
人類に関係のある別の全体性に何かの手を打つことは、その全体性に組み込まれているかもしれないし組み込まれていないかもしれない。仮に組み込まれていないのなら、別の全体性に与えた影響は人類の全体性にどんな影響を与えるのか?
人個人の可能性にチャレンジするのなら、これが最も大きな一手ではないか?と思っている。
【千式】純性ではない可能性 0309
オレは人、それも個人の可能性を考えてしまう。もっと高く羽ばたけるのではないか?と思ってしまう。それ自体全体性のプログラム通りかもしれない。だからそのプログラムを超えることが最大の「可能性」ではないか?と思ってしまう。だが実際には、全体性の速度を早め、もっとスムーズに進めることをやっているのだと思う。少なくとも自分と自分の周囲にはそれをやっている。結局は枠組みの中のできごとなのか。それがいいとも悪いとも言わないが、そうやって生きていき、子孫も組み込まれ、転生してもまた別の役割でそれをやるのか?
そのことに不満があるわけではないが、純性ではない生き方はないものか?と探ってしまう。
【千式】虚しさ 0310
全体性があり純性があるということは、ある意味相応以上の努力をしなくても、自分を変えなくても別に構わないということだ。実際に多くの人は自分の今まで培ってきた純性を頑なに変えない。人を変えるのは難しい。
人と心を通じあわせ、理解し合おうと思ったときに変わらないことを優先されると虚しくなる。この虚しさを感じることが個人の原動力を奪うとしても、それ自体が全体性に必要だからだと見ることもできる。
真に虚しいのはつまり、全体性には抗えず、純性というプログラムに沿って生命と種が動いているのではないか?という現実的な疑問にある。人はパーツなのか。パーツとは感じないように巧みに組まれた枠組みの中の部分なのか。そう考えたときにオレは一番虚しさを感じる。
真に虚しいのはつまり、全体性には抗えず、純性というプログラムに沿って生命と種が動いているのではないか?という現実的な疑問にある。人はパーツなのか。パーツとは感じないように巧みに組まれた枠組みの中の部分なのか。そう考えたときにオレは一番虚しさを感じる。
--------------------------------------------------------------------------
あたし
一回読んだくらいでは、
わかりませ~ん。
何回か、読んでみます




今日もアクセスありがと~



また明日ね
おやすみ!

松原氏の千式コラム1~500 のリンクはここから

⬇︎ ⬇︎ ⬇︎