多くの悩み苦しみの原因は他人との比較から起こるものだ。
もちろん全部がそうだとは言っていない。
あくまで、多いよねって言うだけの話だ。
言葉の拙い幼い子供に悩みがあまりないのは他人との比較という選択があまりないからでもある。
ではなぜ他人との比較があると悩みや苦しみになるのかというと、その根底に優劣の概念が強いからだ。
どっちがいいとか悪いとか、これが優劣だ。
仏教などで語られる宇宙の根本に立ち返ると、そもそも優劣は存在しない。
ただそうである、というだけだ。
背が高い、という事実にしても、正確には身長が180センチであるというだけであり、高い低いは比較の概念である。
比較がくっついてくると途端に優劣ももれなくオマケになりがちだ。
ありのままを愛するとかいうのは、要は比較や優劣の概念が入らない部分で「ただ、そうである」のみを受け入れるという話である。
決して「身長が低い私を愛する」みたいなものではない。
「身長150センチの私である」みたいなものだ。
優劣はキリがない。
私個人はおかげさまで(?)極端に体が弱かったせいで「生きてるだけですごいじゃないか」と思うが、生きてることが当たり前になっていると、そこでなんとか比較と優劣を引っ張りだしてきてもっと満たされようもっと優位に立とうと思うのが人のサガである。
SAGAサガ~~~~
よく言われることだが、他人とはただの鏡だ。
自分という存在を映し出し確認するための鏡である。
決して自分がまんま映っているという意味の鏡ではない。
例えばなんらかの意味で自分よりだいぶ劣っている他人を見たとしよう。
営業成績が悪い同僚とか、学歴が乏しい幼馴染とか、モデルのようにスタイルのいい知人とか。
これは、「そういうことが気になる自分」を映し出している鏡なのだ。
物理的な洗面台にある鏡だけが自分を映すものではない。
そっちは自分の外見を映すもの。
他人とは自分の内面を確認するために存在する鏡なのだ。
他人と比べて落ち込んじゃう、みたいなのはつまり、言い方を変えると
「自分の内面を見て、ガッカリする」
みたいな捉え方でもいい。
他者との比較による悩みは、自身の魂や精神が研ぎ澄まされればされるほどなくなっていく。
いわゆる、人は人、よそはよそ、人それぞれ。
そりゃ一面だけ見れば羨ましいこともあるだろうが、人は多面体なのだ。
表に1と書いてあっても見えない面にはマイナス100と書いてあるかもしれない。
人生は短いのだ。
誰かと比べてどうかより、自分が気に入る自分になっていくことに時間を使わないとさ。
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