
女性セブン 1990年6月28日発行
やったね❗️ 全米デビューが大成功

聖子あっと驚く「復縁」国際電話

「10年前、福岡から東京へ出てきたときは、まさか自分が世界のニューヨークからデビューするなんて、夢にも思いませんでした」
そういって、松田聖子は涙で顔をクシャクシャにした。
初の英語版アルバム『seiko 』が発売された6月5日(日本時間6日)、聖子はニューヨークのCBS 本社で記者会見し、初の海外デビューに感きわまって何度も涙を見せた。
とくに、途中で、5月31日に発売されたデビュー・シングル『ザ・ライト・コンビネーション』が会見場に流れると、顔は涙でクシャクシャになり、うつむいて唇をふるわせ、机の上につっぷして泣きじゃくり始めてしまった。
「この2年間、つらいことや悲しいことがたくさんありましたが、こんな素敵なアルバムができて、本当に感無量です。あまりの嬉しさに、力が抜けました。自分では何度も何度もくりかえし聴いてきた曲が、やっと売られるんだなあと思うと…」声がつまってしまう。
「音楽を、歌手をやってきて、本当によかった!」

会見には、CBS レコード社長、コロムビア・レコード社長も同席したが、アメリカでは、まだ無名の新入のデビュー記者会見にレコード会社の社長が直々に出席するというのは異例のこと。CBS の聖子に対する期待の大きさがうかがえようというものだが、この席で、トミー・モトーラCBS レコード社長は、こう発表した。
「手もとに届いた報告によると、このままいけば、来週、ビルボード(音楽チャート誌)のトップ80にはいることになるだろう」
あのマドンナでさえ、初登場は50位台だったのだから、初登場80位を予想するというのは、かなりの目算があってのことだろう。
CBS 側の強力なプッシュもあって、日系人が多いロサンゼルスのFM 局などでは、早くもリクエスト1位の声も聞かれ、アメリカ・デビューは上々のすべりだした。さらに、あるレコード関係者がこんな話をする。
「聖子はね、いま燃えに燃えてますよ。全米のみならず、英、仏、オーストラリアなど12か国でレコードが発売されるわけですからね。それだけに、これからの仕事をどうすればより充実したものにできるのかを、真剣に考えてますよ」そして、そのひとつのプランとして、このレコード関係者は、あっと驚く〝計画〟があると話を続けた。
「彼女はね、以前に所属していた芸能プロダクション『サン・ミュージック』に戻りたいと考えているんですよ。そのために、米国から『サン・ミュージック』の相澤社長に数回の電話を入れてるんですから…」

…聖子は昭和55年のデビューから昨年6月に独立するまでの約10年間を同事務所で過ごしている。一度辞めた所属事務所に復帰といえば、最近では都はるみの例があり、はるみも古巣の『サン・ミュージック』に戻っている。はるみと同様、聖子も復帰する、いや、正確にいえば復帰を望んでいるというのだ。しかし、聖子が『サン・ミュージック』を離れる際には多くの批判が彼女に集中した。
〝金銭問題が原因〟と噂されたことも手伝ってか、〝事務所は苦労して聖子を育て守ってきたのに、自分が売れたらさっさと独立してしまうとは〟というのが大半の声だった。確かに聖子と『サン・ミュージック』のあいだには、しこりが残った独立劇だった。そんな経過があるにもかかわらず聖子が復帰するということがあり得るのだろうか。

当の『サン・ミュージック』の相澤社長は当惑しながらこう話す。
「そんな話はないよ。彼女はいまニューヨークで一生懸命やってんでしょ。レコードも発売になったし、電話なんてかけてこないよ」
⎯ほんとに一度もないですか。
「ないない。まあ、何年かたったら、子供でも連れて遊びにくるなんてことはあるかもしれないけど、現段階でうちの事務所に復帰なんてことはありえないよ」
また、現在の所属事務所『ファンティック』側も、「そんなことは絶対にあり得ないことです」言下に否定する。ところが『サン・ミュージック』にごく近いプロダクション関係者はこういう。
「相澤社長のところへ、聖子から電話が何度かはいっているというのは『サン・ミュージック』内でもかなりの話題になっていますよ。聖子がデビューして以来、『サン・ミュージック』では全面バックアップしてきたんですよ。それだけ、みんなが彼女の才能にかけてたんですね。『サン・ミュージック』では〝聖子番〟には、女性3人、男性も運転手を含めて3人の計6人もつけ、聖子が〝世界〟をめざしてニューヨークに渡ると、さらに現地採用の男女各1人をつけるほどね。そして、聖子のプライベートな海外旅行のときでも、かならずスタッフ数人が成田空港まで見送り、出迎えしていたし、日本武道館でのコンサートのときなど、聖子と関係のないセクションのスタッフまで警備に参加してたんです。それだけに、昨年の7月1日、ギャラ問題がこじれて独立したときは、社員の怒りが爆発したんです。あれから1年、いまになって、また戻ってきたといっていると聞いて、『サン・ミュージック』の内部には、戸惑いの声すらあがっているんです」

微笑雑誌 1989年7月29日発行
サンミュージックから独立宣言したとたん、またまたニューヨークへでかけていった松田聖子
人気タレントの独立問題には、大小の差はあれ、いつも不協和音がつきまとう。〝懸命に育てあげてきたのに〟というプロダクションの思いと〝もっともっと自分の思うように仕事したい〟というタレントの思いのぶつかりあい。その立場になって考えてみれば、それぞれのいい分にうなずけもする。だからこそ問題がこじれることが多いわけだ。
しかし、聖子を古くから知るテレビ関係関係者は、こんな見方をする。

女性自身 1990年9月4日発行
ラジカセと一緒に、沙也加ちゃんへのお土産の衛兵のぬいぐるみを抱いて、ロンドンから帰国した松田聖子。
「確かに、聖子の独立問題は同初ゴタゴタしましたよ。でも最終的には相澤さんとも納得づくで別れたんですよ。それにいまのスタッフ(『サン・ミュージック』)も慣れない仕事をとてもよくやってくれている、と彼女は感謝してるんですからね。ただ、ずっと聖子と行動をともにしてきたスタッフ⎯『サン・ミュージック』から新事務所へ移るときも一緒だったHさんという女性が最近、事情があって『ファンティック』を辞めたんですよ。もし、本当に聖子が相澤社長に弱音をはいたとすれば、たぶんにその影響があるんじゃないでしょうか…」

互いに信頼し合い、世界進出を目指した強力スタッフの退社が、聖子を不安にしたのではないかというのだ。
大組織の『サン・ミュージック』が全面バックアップしていたころと比べれば、現状は聖子にとって思うにまかせないことが多いのも当然といえる。
夫と娘と離れて世界進出に賭ける聖子が、育ての親にもらした甘え、いや弱音ということなのか。
注目の全米デビュー・レコードは6月16日付けの『ビルボード誌』で88位にランキングされている。日本人歌手が誰ひとりとして果たせなかった夢を、目の前にたぐりよせた聖子。
やっぱり、ただ者ではないみたい!