
MORE雑誌1988年切り抜き
オードリー・ヘップバーン 私の〝愛〞

スイス・トロチェナズにある田舎風の家。家族と庭いじりを楽しむその中年女性(年齢的には初老といってもいいのだが、そう呼ぶにはあまりにも若々しく、美しいので)は8歳年下の恋人と、それぞれ父親の違うふたりの息子、そして犬たちと一緒に静かに暮らしていた。
オードリー・ヘップバーンには派手な男性遍歴はないが、常に彼女に寄り添う男性の姿がある。最初の夫メル・ファーラーとは14年間暮らし、長男ショーンが生まれた。離婚した翌年に2番目の夫アンドレア・ドッチと再婚してルカという男の子が生まれたが、12年目に別れてしまう。

そして、現在一緒に暮らしている俳優、ロバート・ウォルダーズは結婚という形式こそとっていないが、彼女にとって3番目の夫といっていいだろう。
実はメル・ファーラーと知り合う前の無名時代にも、結婚式の日取りまで決めた婚約者がいた。この時は『ローマの休日』で一躍スターになった彼女が、自分から婚約を解消したといわれる。ヘップバーンの相手はいつも離婚歴のあるプレイボーイだが、2度の結婚生活を10年以上も守り続けてきたのは自分に父親がいなかったので離婚はしたくないと思ったからだ。

幼い頃の彼女は、決して幸福とはいえない。
1929年、世界大恐慌の年にベルギーの首都ブリュッセルに生まれたが、金融業を営んでいたアイルランド系イギリス人の父親は、ベルギーとロンドンを忙しく往復して留守がちだった。両親はヘップバーンがまだ6歳の時に別居、やがて離婚する。家庭の幸せが壊れていくのと時を同じくするようにヨーロッパの国際情勢も悪くなり、1939年にナチスドイツがポーランドへ侵入、第二次世界大戦が始まった。ロンドンの寄宿学校に入れられていたヘプバーンは、イギリスを逃れてオランダの母親の実家に引き取られるが、ここで過ごした少女時代にもいい思い出がないようだ。母親はオランダ人で、裕福な男爵家の娘だったが戦争で財産を没収され、母親は狭い地下室に隠れ住まなければならなかった。そこはドイツ国境に近い激戦地だったために、食糧事情は極端に悪く、終戦時にはほとんど栄養失調の状態で、彼女が太れない体質になったのはそのせいである。

15歳でようやく終戦を迎えた彼女は、プリマバレリーナになる夢を抱いてひとりロンドンに出た。写真のモデルや踊り子のアルバイトをしながらバレエ学校に通ったが、背が高すぎたためにバレリーナをあきらめて女優へと方向転換をする。
『ローマの休日』を制作したワイラー監督は、彼女が出演した舞台を観て、王女役はヘップバーンしかいないと直感したという。
1953年、彼女は一作でアカデミー主演女優賞を獲得、この時24歳。貴族の血を引く母ゆずりの気品と無邪気な表情が、世界の映画ファンを魅了した。

〝妖精的なプリンセス〟のイメージがつきまとい、スクリーンでも私生活でもそれを演じ続け
なければならないヘップバーンは精神的に疲れ始めていた。

メルとの間にも行き遠いが生じていた。ヘップバーンに比べて彼のほうは仕事もうまくいかず、かつては父親であり尊敬する芸術家であった夫の実像も、だんだんに色あせて見えたに違いない。
自分が父親から受けた打撃を子供たちに繰り返して味わわせてはいけないと願い続けてきた彼女だったが、ふたりの間に生じた溝は埋められなかった。

離婚問題で心に傷を負っていた彼女は、友人からひとりの精神科医を紹介される。ヘプバーンは気持ちの安定を求めるように彼のプロポーズを受け入れ、ふたりは結婚した。ドッチは10歳年下のイタリア男性で、翌年には男の子が生まれた。
40代を迎える頃の彼女は、女優としても次のステップを踏み出そうとしていた。
『いつも2人で』『暗くなるまで待って』で中年の人妻を演じて見せるヘプバーンはやはり魅力的だ。

1988年4月、オードリーはユニセフの親善大使に選ばれ、各地を訪問した。第二次大戦争中はチューリップの球根まで食べたという彼女にとって飢餓は他人事ではない
その後は数えるほどしか映画に出演していないのに、今も彼女の人気は衰えていない。
ところが、女優であるよりも家庭的であろうとしたヘプバーンとは裏腹にドッチは派手に浮気を繰り返し、これが原因でふたりは別れた。
1981年、2度目の離婚。その後ロバートという新しい恋人を得て、今の彼女は本当に幸福そうだ。

真冬の別荘地でウォルダーズ氏と。60歳近くにしてこの姿勢、この歩き方。見習いたい
彼女が長い時間をかけて求めていた幸福は、まわりから見ればあまりにも平凡だが、それこそがヘプバーンにとって真実の愛だったに違いない。
