non・no1986年11/5定価380円
スター・ファイル 奥田瑛二 おくだ えいじ
1950年3月18日生まれ  愛知県出身 血液AB型
小さいころは一人遊びばかり。自己主張が強かったから、友達と遊ぶのは得意じゃなかった。
兄弟と遊ぶのは好きで、いつも姉のスカート引っぱりながら、後を追いかけ回していました。当時の一人遊びといえば、母親の浴衣を着て、竹のものさしを腰に差して「エイッ、ヤーッ!」と一人で呼んで丹下左膳か鞍馬天狗ごっこ。あるいは、壁に書いた円に投げたボールが入ればストライク、ということにして、「ピッチャー権藤、第一球投げました。ストライク!」と一人で実況中継しながら壁野球。当時、ぼくは地元中日ドラゴンズのファンだったんです。

ぼく、小学校6年まで毎日おねしょしてまして、シーツの下に必ずビニール敷いて寝ても、毎日毎日屋根の上へ布団を干すことになる。さすがに恥ずかしかった。ニンニク灸、錠剤、漢方、いろいろやったけど治らない。もし中学に入っても治らなかったらと思うと、すごいプレッシャーでした。おねしょは中学校の入学式の日、ピタリと治ったのですが、それでも長くおねしょしてたなんてね。以来コンプレックスのかたまり少年になってしまいました。
今でもいろいろありますよ。どうしておれの鼻はこんなに大きいのか。草刈正雄みたいにもっとスラッとした鼻がいいのに、と思ったもの。まあ、今では売れちゃったし、むしろそれを武器にしてるから、こよなく愛してますけどね。

俳優を目ざしたきっかけは単純です。東映の大友柳太郎さんの一連の作品、『丹下左膳』とかを見て、これしかない!と思ったから。それにもう一つ理由があって、ぼく、閉所恐怖症でね。狭いところがダメなんですが、それが高じると人口1万人の街でも狭くて息苦しく感じる。20万人の街でも大差ない。当時日本の人口は8000万人といわれていたから、その中ならなんとか呼吸できるんじゃないかと思ってました。そのためには、政治家か、歌手か、俳優になって自分の名前を全国へ広めなくちゃいけないわけです。

で、東京へでて来たんですが、18~20歳まではおやじはぼくを政治家にしようと考えていて、政治家の書生をやらされてました。でも、自分の最終目的は、やっぱり役者。
今から思うと歌もいいけど、当時はちょっと軽薄な気がしてね。映画は全盛で、石原裕次郎の名前を知らない日本人はいなかったから、役者しかない、と決めたわけ。
小学校5年からそれを思い続けて、現在みごとに成就してますが、一回も横道にそれずによくここまでやれたと思いますよ。

単純にいえば功名心かも。だけどそれが自分をここまで支えてきたし、これからも支えていくでしょうね。役者になって〝ホラふき小僧〟ってアダ名がつきましたよ。実際売れなかったんですが、いつも自分が売れないはずはない、といい続けていたから。しかも最初から主役でいきたい。はじめて役もらっても、こんな小さな役、やれるか!でしたから。

もし、自分が売れない、と少しでも思っていたら、そのとき本当に役者稼業を、やめていたでしょう。でも、そんなことは一度も考えたことがなかったな。とはいっても、ここまでこれたのはやっぱり奇跡だと思いますよ。何にしても、のしてくるにはすごいエネルギーがいるし、たとえ劇団に入っていても、飯が食えて、しかも主役やれるのはひと握り。よく10年間も売れないでいられた、と思うとホントにゾッとしますよ。

でもその10年間は、一見ムダ飯に見えて、違うんです。売れない時代、いろいろな職業をやりましたけど、経験は新劇では教えてくれません。ただ、テクニックがないからそれを表現できない。引き出しはたくさんあるのに使い方が分からない感じ。それを変えたのが、4年前の14か月の休養でした。その間は何もせず、一日テレビの前に座って、お笑い番組、ニュース、ドキュメンタリーばかり見る毎日でした。ドラマの類は一切見ない。

その休みがよかったのか、今まで開けても使えなかった引き出しがどんどん使えるようになっ
たんです。それまでの感性のみの演技に、テクニックがついてきたんですね。引き出しの数は多いですから、演技で冒険できるようになりましたし。あのまま自分の技術不足も分からず続けていたら、今ごろポシャってたかもしれないし、4番手か5番手の役者で終わってたかも…。

このマオカラーを着て、テロリストを演じてみたい。黙って静かに殺人を…

ふだんの服はカールヘルム。自分のシルエットにぴったり。現代劇のドラマの衣装もほとんど自前だよ

ずっと、ぶしょうひげのダンディズムを追求してた。ハサミで毎朝きちんとぶしょうひげを整えてね。

酒は強い。飲んでいて自分から帰ろうとは、まずいったことがないよ