今日はこどもの運動会。
運動会が終わったら、余韻に浸ることもなく、
「じゃあ行くから」
とパパ君は遊びに行ってしまった。
「よかったよね」とか運動会の感想はない。
「頑張ったね」とかそんな声掛けはないんかい!
と思わず突っ込んでしまいそうになる。
でもね。
これが我が家の日常なのである。
日常のはずなのに、
今日は少しだけモヤモヤしている私がいてね。
たびたび出てくるの。
大丈夫な時もあるけれど、
時々出てくるんだよね。。。
パパ君とたくさん話をすればするほど、
何かが変わるのではないかと
期待している自分がいる。
もう自分の中では
納得してきたつもりだったけれど、
やっぱり期待しているんだ。
これを「期待しても無駄」という
着地点で終わらせがちだった。
自分を納得させようとしていた。
でもね、最近勉強しているので、
それではこのモヤモヤは解決しない
という事がやっとやっーっと分かった。
同じことが繰り返されるという事は、
私の中に癒えていない傷があるということだ。
ここに何が映し出されているのか。
という事で、自分を見ていく。
何にモヤモヤするのか。
どうして欲しかったのか。
それは本当にそうなのか。
私がモヤっとする事は、
子どもをもっと楽しませて欲しい。
子どもに優しい言葉をかけて欲しい。
運動会くらいもっと父親として
子どもをメインに考えてよ!!
って思ってる。
何でそう思うんだとさらに見ていくとね、
それは、子どもではなく私なんだと思う。
私がそうして欲しかった。
私は父親とパパ君を重ねている。
私はもっと父親に褒めてもらいたかった。
私のことを見てただただ
嬉しそうに笑っていてほしかった。
頑張ったねって言って欲しかっただけなのだ。
私が父親にして欲しかったことを、
パパ君には子どもに対してしてほしいと
望んでしまうのだ。
子どものためではなくて、
私がして欲しいだけだった。
そっかそっか。
私は父親に褒めて欲しかっただけなんだ。
それを感じる事で自分が大切にされているって
思いたかっただけだった。
じゃあ父親は私に愛情がなかったかというと、
ただただ不器用だっただけ。
いっぱい愛情をかけてもらっていたのに、
切り取られた一部分を見て、
褒めてもらえなかったってその記憶だけが
残っているだけで、
私は結構愛されていたことはわかっている。
という事を思い出した。
私はいつも父親に大切にされていた。
パパ君も同じだ。
子どもへの愛情表現が極めて分かりにくい。
見ている物差しが違いすぎて、不器用すぎて、
多分私には理解できないんだと思う。
私はついつい見えている部分で判断しようと
してしまう癖がある。
広い視野が必要なんだと
世間一般の狭い常識にとらわれるなと
教えてもらっているのかもしれない。
私とパパ君は違う。
でも子どもには愛情は伝わっている。
たぶんそういう見えてる部分だけで考えて
「パパ君の態度が冷たくてこどもが可哀想」
って思うと、
可哀想な子どもになってしまうわけなので
私が大丈夫!と思う事が大事。
可哀想なわけがないのだから。
私が大丈夫!と思って過ごしていれば
子どももそんなものとして受け取っていく。
子どもは本当に自由に柔軟に育っていく。
という事がようやく理解できてきた!
あっ!
これを書いているうちに私復活しました
✨
モヤモヤして、はっと気づいて、
小さな自分に涙が流れて、完全復活!!
忙しいな私。
実は運動会後に子どもと3人で外食に行き、
運動会帰りのたくさんの家族連れを見て、
その中にはお友達家族もいて、
みんな父親と楽しそうにしていて。
平気なふりをしながらも、どこか
そういう家族と比べていたのかもね。
あー。数時間前の私弱ってたなぁ![]()
我が家には我が家の形がある。
普通に染まる必要がないと気づいたのだ!