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風子との約束通り、
私達は公演の無い日に休みを取って 三人で街に出かけた。
ショーウィンドウに飾られた愛らしいバッグや
モダンな服を見つめたり、 デザートを食べたりして楽しんだ。
レコード屋に入ると、 静かな音楽が流れていた。
私達は自然と動きが止まり、 その音楽に聴き入っていた。
「 この曲、
何を唄ってるのか知らないけど 聴いてると優しい気持ちになるね 」
そう言ったカノンと同じ事を 私も考えていた。
「 これはね シューベルト 」
「 え? 」
「 “ エレンの歌 第三番 ” 」
私とカノンは顔を見合わせた。
「 風子・・・ 詳しいんだね 」
「 悦子ママに教えてもらったの。 ママがクラシック音楽が好きなのよ 」
優しい風子に似合う曲。
「 あなたたちも一緒に
ママの所で レコードを聴かせてもらおうと思っていたの。
二人に聴かせたかったの この曲。
ごめんね、 もっと早く言えば良かった 」
こういう音楽に心寄せる時間を
ちゃんととっておいた風子を 素敵だと思った。
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帰るため駅へと向かう頃 空はどんよりと曇りだした。
「 うわぁ。 ひと雨降りそう 」
「 ほんとだ・・・ 」
重く広がる空を見ながら歩いていると
駅舎に入るすぐ手前の 小さな段差に躓いて
私は派手に転んでしまった。
「 ちょっ ちょっとマヤ! 大丈夫っ?! 」
風子がびっくりして声を出す。
私は直ぐに上体を起こした。
「 平気平気。 転んじゃった。 アハハ 」
カノンはしゃがんで呆れた様子で苦笑いを浮かべた。
「 何やってんのよ 綱渡りの名手が 」
「 怪我は無い? 」
「 うん 大丈夫 」
上着に付いた汚れを手で払って 少し笑った。
別に痛くもなんともないのに
私はどうしてなのか 涙が出た。
それは 後ろからポンっと押し出されるように
自分の意志と関係無く 勝手に零れ落ちた。
「 マヤ? 」
こんな所で泣くなんて 馬鹿だと思われる。
私は一度、 ぐるりと周りを見渡してみた。
難しい表情を浮かべた人や
友人と楽しげに会話しながら歩く人
仕事鞄を持って 次の場所へと急ぐ人。
ああ 雨が降ってきたのだ。
だから皆 あんなに早歩きになるのか・・・
いっぺんに勢いをつけた雨が 街の色を奪ってゆく。
数え切れないほどの人が往来するその足元で
座り込んだ私の目から
ずっとこの時を待っていたかのような涙が溢れ出た。
私は次第に涙の量が増え
雨音に負けないくらいの泣き声を上げていた。
人々が 怪訝に私を見ただろうが
私には その顔は見えなかった。
「 マヤ・・・ 」
風子は 母猫が仔猫の毛繕いをするように
丁寧に私の背中を優しく撫でてくれた。
そっと包んでくれたカノンの体は細くて胸も薄っぺらいけど
私は安心しきって身を委ね、 大声で泣き続けた。
泣きながら思った。
カノンも風子も、 そして馨も
私の中に溜まった涙を とうに知っていたのかもしれない と。
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旅立ちの日、
皆とは サーカス小屋の前で別れた。
用意した荷物は 自分でも呆れるほど少なかった。
「 おなか冷やすんじゃないよ 」
小春さんが手作りの腹巻をくれた。
「 頑張れよ 」
団長は
まるで花嫁の父親のようだと 他の団員にからかわれた。
「 ちょっと待ってー! マヤちゃん待ってぇぇ!! 」
野太い声で走ってきたのは 悦子さんだった。
「 ああ良かった、間に合った。
マヤちゃん これ。 お弁当作ったの。 途中で食べてね 」
わざわざ 私に?
「 向こうに行っても ちゃんとごはん食べるのよ 」
「 ありがとう・・・ ありがとう悦子さん 」
悦子さんの料理を もう懐かしんでしまう。
「 マヤねえ、 いつ帰ってくるの? 」
一番年下の子が 風子の服を掴んで訊く。
風子はその子を抱き上げた。
「 マヤねえに行ってらっしゃいって。 ね? 」
涙を隠すように
笑顔で子供達に語りかける風子を見て 泣きそうになった。
カノンも子供達の背中に手を当て 笑顔で見送ってくれた。
空港に向かうタクシーの中から
今迄過ごしてきた小屋が見えた。
そこにあるもの全てが 私の親だった。
想い続けた憧憬は
いつも
傍に在ったのだ。
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渡航の手続きを済ませ搭乗口へと向かうと
私を待つ人がいた。
上品な紳士。
私は顔が凍りついて
一瞬立ち止まった後、 ゆっくりと歩を進めた。
「 次の便で行かれるのですか? 」
紳士は 藤岡氏だった。
馨の亭主が どうして・・・ 何故此処に居るのだ。
「 あなたをフランスの団に推薦して 本当に良かった 」
「 え? 」
このひとが?
何故、何の為に・・・
私は パズルが合うような気持ちになった。
藤岡氏に何か言わなければ。
でも 上手く口が動かない。
「 成功を祈っていますよ。 頑張って下さい 」
「 この度は 有難うございました。
奥様に・・・
奥様にも 宜しくお伝え下さい 」
私は言葉を振り絞りお辞儀した。
足は竦んでいた。
「 有難う。 伝えておきます 」
その時近くにいた どこかの少女の声が聞こえた。
「 ママー お人形買ってー。
公園で失くしちゃったから 新しいお人形買ってー 」
私はまだ頭を下げていた。
「 さて・・・
妻にも何かプレゼントを買って帰ろう。
大事にしまっておいた玩具を失うというのは
大人でも寂しいでしょうから 」
私は目を見開いて そのままゆっくり顔を上げた。
そこに居たのは 上から見下ろすような
余裕の表情の藤岡氏だった。
「 では お元気で 」
心臓が破裂しそうだ。
鼓動が頭に響く。
私は藤岡氏の後ろ姿を見つめた。
馨の姿が 残像のように重なった。
かつて、
馨の事をずるいと思った自分の愚かさを 今になって恥じる。
彼女は ずるくもなければ卑怯でもない。
馨はただ 私を守りたかったのだ。
伸びていない爪が 手の平に食い込みそうだった。
この熱を どうすべきか解っていた。
私と馨を引き離す 藤岡氏の策略であったにしろ、
きっかけが何であろうと 私自身がこの道を決めたのだ。
私はこれから他所の国で、
一から後悔するのだろう。
一から挫けるのだろう。
一から喜びを知るのだろう。
そして
一から埋めて行き
誰も見た事の無い庭園を空中に作ってみせる。
優雅で華麗な庭園を。
命懸けで。
~終~