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私は東京で単身 暮らしていた。

離婚して しばらく経った後、本社への移動が決まった。

娘は県外へ転校するのをとても嫌がって 実家の両親と暮らし始めた。  

少しでもお金を送らないと と考えると

高いマンションなどに入居する気持ちにはなれなかった。

小さなアパートと小さな軽自動車で十分だった。

 

後になって分かったのだが、

両親は 私が送ったお金を全額貯金してくれていた。

結構な額になっていて 

その後 娘を留学させる事ができた。 

私が在るのは 両親と娘の御陰だ。

 

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ナナは本を読むのが好きだった。

小説ではなく 殆ど詩集か俳句・和歌などの本で

壁にもたれかかり 片方の足を伸ばして

もう片方の立てた膝に肘を置き 眺めるように読む。

私はその姿を見つめるのが好きだった。

仕事とは、 趣味ではなく 

けして簡単なものではないけれど

昼間書店で働いている彼女には 

職場は宝箱みたいなものかもしれない。

 

 

「 どうして俳句とか好きなの? 小説より好き? 」

「 うん。 歌や詩って、詠んだ人から読み手に渡ったら 

 もう読み手のものになるから。

 自分だけの解釈が自由に出来るから好きなのかな 」

 

「 なんか カッコイイ 」

 

少し照れくさそうに笑ってナナは本を閉じた。

 

「 フランス語が話せるインテリアデザイナーの方がカッコイイじゃん 」

「 こんな古いアパートに住んでても? 」

「 昭和な感じが最高。 色っぽさが増すから心配になる 」

 

 

指を伸ばし 私の手の甲に川のせせらぎを作る。

吐息のスイッチが入る前に 私は無理に思い出して訊ねてみた。 

 

「 そういえば 例のパトロン候補の奥様はどうなったの? 」

ナナは手をサッと引いて 悪びれずあっさり言った。

 

「 会ったよ 」

 

え。

やはり母親の頼みは断れなかったのか・・・

 

私は何故だか 哀しくなった。

それは見知らぬ奥様や母親への嫉妬心ではなく

希薄な親子関係でも 母を想うナナが、可哀想に思えたのだ。

“可哀想”だなんて 無責任な感情だとは分かっているけれど。

 

しかし私は 親を想う気持ちに少し安心する。

娘の顔がよぎったのだ。

そして このご都合主義に自己嫌悪するのだった。

 

「 お金持ちのする事ってよく解らない。 

 少し話をして 少し唄ってあげたら

 宝石の付いたネックレスをくれようとした 」

 

「 えぇっ!? 貰ったの? 」

「 ううん。 直接奥さんの首に着けてあげて

 “此処にある方が 宝石が喜びます”って言って返した 」

 

この人は自分の言動を理解しているのか?

そんな風にされたら その奥様は更に熱を上げるに違いない。

 

「 ああいうのって 一種の風邪だよ 」

「 風邪? 」

 

「 女同士の恋愛なんて普通じゃないでしょ。

 一般的に考えたら 気色の悪いもんだよ。 私が言うのも変だけど。

 でもさ、普通じゃないものに憧れる女特有の風邪ってあるでしょ?

 時間が経てば 

 なんであんなのに夢中になってたのかしら~なんて思うんじゃない? 」

 

“ 風邪 ”をひいたままの私が 

引きつった笑顔のあと泣きそうになった。 

 

私のどういう仕草が彼女をそうさせるのか、

ナナは突然 帳を下ろし

緋色に薫る宵を迫ってくる。

揺らぐ気持ちを置いてきぼりに 

私は体を許してしまう。

 

「 ナナ・・・ もしかして元々・・・ 左利きだったんじゃない? 」

「 そうよ。 なんで分かるの? 」

 

理由が分かったのか笑った。 動きを止めることなく。

「 矯正されたんだよ・・・ 右利きに。 でも両方使える 」

「 知ってる 」

 

 

この熱が百年続いたら 

どんな花が咲くだろうか、永遠は美しいだろうかと 

なだらかに溶けて滑る肌の中で

“ 夢十夜 ”を思い浮かべた。

 

 

§

あまり自分の過去を話したがらない彼女から

その夜 初めて幼い頃の思い出話を聞いた。

 

洗濯物がよく乾く日当たりの良い広い庭。

雨上がりにはキラキラと反射する芝生。

庭に咲き誇った桜の木の下で

お婆様と楽しんだ 二人だけのお花見。

お婆様が亡くなった後 

家の住人が自分ではなく叔父夫婦になった事。 

ナナの記憶は スルスルと私の中に入り

まるで自分自身の記憶のように感じられた。

 

「 としまえんによく連れて行ってもらった 」

「 豊島園・・・ 練馬の? 」

 

「 あそこのメリーゴーランドが好きだったの 」

回想する彼女の横顔は可愛らしい少女に見えた。

「 白い馬が好きだった 」

 

私の脳裏に、 回る度 お婆様に手を振る幼いナナが浮かぶ。

私は 愛しくて ただ愛しくて抱き寄せて彼女の髪を撫でながら言った。

「 行ってみる? 」

ナナは小さく頷いた。

 

それが 互いのぬくもりの中で眠った最後の夜だった。