§

 

こうやって くっついていると 思わず私は 

顔を傾けて 首筋の その優しい香りを

確かめたくなった。

でも  我慢した。

 

他に客がいるからという理由ではなく

このひとの胸の中に 誰かがいると知ったときから

私は 自分の湧き出るであろう気持ちを

封印したのだ。

 

雪は降る。

あなたは来ない。

 

体に触れているのに 胸を合わせているのに

このひとは 私の胸の中に 飛び込んでは来ない。

 

音楽に揺れる彼女は  憂いを帯びた瞳をしていた。

 

その時、 ひとり言のような小さな声を聞いてしまった。

 

「 ・・・ 夢みたい ・・・ 」 

 

伊織さん・・・ 泣いているの?  

と思ったら、  顔を伏せられた。

 

歌が終わると 彼女は笑顔になっていた。

「 ありがとう。 素敵ね、こういうの 」

 

そして そのまま 帰ってしまった。

 

その後姿を見ていると

雪の中に  取り残されたような気分になった。

 

 

彼女の家庭が どんなものなのか知らない。

 

でも 

寂しさを住処(すみか)にしているような彼女の瞳を思うと、

外の寒さの中を くぐりながら

夢から覚めていかなければならない彼女を

踊りに誘った事が 今更ながら 酷に感じた。

 

 

§

 

その日、 私は書店のレジスターの前にいた。

「 カバーを お付けしましょうか? 」

手馴れた速さで 新書本に カバーを付ける。

 

今日は 日差しがあるけれど 寒そうだった。

外を フッと見たとき、 

入り口に 伊織さんが近づいてくるのが見えて

ドキッとした。 

母親くらいの年齢の女性と一緒だった。

 

微笑んで 「 いらっしゃいませ 」 と言うと

彼女は私を確認すると 

少し頭を下げて  そのご婦人の後をついて行った。

 

私は直感で もしかすると お姑さんかも・・・と思った。

しばらくすると そのご婦人が

レジの前に来て 本を差し出した。

  

“ 姓名判断 ”   “ 赤ちゃんの名前 ”

 

その二冊の本を見て

私は 多分、  顔が引きつっていたと思う。

いつものように 手早く会計を済ませられただろうか。

  

袋に入れて 渡すとき 

斜め後ろにいた伊織さんを見て

固まってしまいそうになった。

 

彼女は 何の感情も持っていない、 

生きていない人形のような  無表情の顔をしていた。

 

二人が店を出て行く姿に

私の胸の奥は ザワザワとした風が渦巻いた。 

  

 

§

  

それから数日が経ち、

伊織さんと再会した。

 

彼女はやはり いつものカクテルを注文した。

 

「 伊織さん、 飲んでも平気なの? 」

「 え? どうして? 」

「 その・・・ 大丈夫かな と思って。 おなか 」

 

彼女は 私が何を言おうとしているのか察知した。

  

「 赤ちゃんなんて  いないわ 」

「 えっ?  そうなの? 」

じゃあ あの本は・・・

 

「 あのひとね、 姑なの 」

「 あ、ああ、 そうなんだ 」

やっぱり。

 

「 子ども作れって うるさいの。 ああいう本を見ると 

  子作りに励むだろうって思っているのよ。

  でもね、 お姑は 悪気があるわけじゃないの 」

 

かばえるんだ。 このひと。 

偉いと思った。

  

「 ごめんね。 聞かせるような話じゃないのに 」 

「 ううん・・・ 」

 

私は これまで伊織さんの事情を

深く たずねたことは無かったが

どうしても 訊いてみたくなった。

 

「 夜 出ても平気なの? ご主人に怒られない? 」

 

「 ・・・ あの人は  家に戻らないから 」

「 え? 」

 

「 夫は よそで部屋を借りて住んでるの 」

「 あ・・・ そう 」

 

重い内容だが 伊織さんは

もうずっと過去の話をするような 穏やかな表情だった。

  

「 七瀬さん、 海見るの好き? 」

「 海?  ああ、 うん 」

「 二人で行こうか? 今度 海を見に 」

  

 

 

一緒に見に行きたいのが 

私だから 誘うのか、

誰かを想う 切ない寂しさを紛らわそうと

私を使っているのか・・・

 

ひとの心の中は 分からない。

 

でも私は 少しずつ変わっていく自分を感じていた。

 

引き返さず このまま

一方通行の道を走ってみようと決めていた。

 

夜の街の カウンターの片隅で

冬の凍てつく海が 優しく広がって見えた気がした。

  

  

                 ~ つづく ~