「じゃあ ここからは一人で行けるな」

 

福山教授が、千鶴さんの病室の前で僕に言った。

 

「・・・はい。ありがとうございました。お世話になりました」

 

透さんの肩を抱いて その場から離れる。

 

「・・・・あの、教授」

「ん?なんだ?」

「どうぞ お幸せに・・・」

「ああ。お前さんもな」

 

二人の笑顔が眩しかった。

 

叩扉するも 中から返事が無いので、僕は そうっと室内へ入った。

 

千鶴さんが いた。

 

眠っている。 僕は起こさないよう千鶴さんの横に置いてあった椅子に腰かけた。

 

千鶴さん・・・

 

そっと手を握る。

 

嗚呼・・・このひとが好きだ。

好きで好きで どうしようもない。

 

僕の頬を涙が伝う。

 

すると・・・握っていた手を握り返された。

 

ゆっくりと千鶴さんの瞼が開く。

 

「・・・雪・・・」

 

優しい声だった。

「千鶴さん、大丈夫ですか?」

 

「雪・・・・帰って来てくれたのだね。私のところへ」

「・・・・」

 

「心配を掛けましたね。お互いに」

「・・・はい」

 

「私はてっきり 曲水の宴の連中にさらわれたのかと思いましたよ。

 いや、それよりも雪はもう 私を見限ってしまったのかと・・・」

「そんな事あるはずがありません。見限るだなんて」

 

「そうですか・・・良かった・・・」

「・・・それに誰かにさらわてたとしても、僕を抱こうとする人なんていません」

 

「?何故そう言いきれる」

「・・・・」

 

「雪?」

「証拠があります」

「証拠?」

 

僕は千鶴さんの手を放し 立ち上がって背中を向けた。

震えが止まらない。

 

「雪・・・どうしたのですか?」

「・・・これが・・・証拠です」

 

着物をずらして 背中の肌を見せた。

「!!」

 

驚愕。息を飲む。 背中を向けていても千鶴さんの様子がはっきりと感じられた。

 

「雪・・・これは・・・刺青ではないですか、なんてことを・・・!」

「鶴の刺青です。解かりますか、千鶴さん。 僕は今 とても安堵しているのです。

 貴方の子を産めない 女であっても産んではいけない僕にとって この刺青は千鶴さんの分身なのです」

 

「・・・雪・・・」

 

そうっを背中の鶴を触られた。

 

「ここまでの激情をもって 私を想ってくれていたなんて・・・けれど一生消えないのですよ」

「わかっています。だからもう僕は独りではないのです。この鶴を背負って

 信州に戻り仏行を・・・・」

 

「なっ どうしてそうなるのですか。 以前言いましたよね、自分を大事にしなさいと」

「ええ。だから、です。 でも・・・決心していたのに 貴方の元に戻ってきました」

 

なんという浅ましさだろう。

  

「雪・・・何があったのですか、失踪している間に」

「燃える金閣寺の中に千鶴さんの幻影を見てしまったのです」

 

「金閣寺・・・現場に居たのですか」

「はい・・・恐ろしくてたまりませんでした。千鶴さんを失うなんて・・・・」

 

僕は着物をきちんと直した。

 

「雪・・・私は・・・光源氏ではありませんよ?」

 

え・・・・

 

「光源氏は幾人との女性と恋をし、子どもを作り

 あげく紫の上がいるというのに 正妻をめとった。

 雪も知っているでしょう・・・紫の上が亡くなってからの光源氏は

 大空に飛ぶ鳥を見ては羨ましがり、 七夕の星を見上げては羨ましがった」

 

「・・・はい」

 

「私はあなたしかいらない。雪だけを見ています。

 これほど 口説いているのに まだ仏行に入るつもりですか?」

 

千鶴さんの言葉が 勿体なくて顔を覆ってしまった。

 

「世阿弥の風姿花伝を読み解くと 能の神髄が解かります。

 能とは何だと思いますか?」

 

福山教授も言っていた。

ただ幽玄、夢幻の世界ではない と。

 

「妙なる心、安堵する心ですよ」

 

まさに今の僕だ。 鶴を彫ってもらい この上なく安堵した。

 

はらはらと涙が零れた。

千鶴さんは起き上がり まるで上等な壷を回すように ゆっくりと僕を正面に向かせた。

 

「雪・・・戻って来てくれてありがとう。 もう何処へも行かないで下さい」

「こんな僕でも よいのですか?」

涙で千鶴さんの顔がよく見えない。

 

「よいのですよ。 ハハ 雪、出会った頃に戻りましたね」

千鶴さんも泣いていた。

 

抱きしめられて この人のぬくもりが 僕の心に雨のように深く深く染み込んだ。

 

「病気が完治したら二人で信州に行きましょう。

 君の母上とお兄さんに 挨拶させて下さい。 雪さんを下さい と」

 

「うぅぅ 千鶴さん」

 

僕は広い胸の中で何度も頷いた。

 

暑い夏が すぐそこまでやって来ていた。

 

 

 

おしまい。

 

参考資料:「能楽への招待」