目覚めたら朝になっていた。
随分冷え込んだようで 私は猫のように丸まって寝ていた。
横になったまま 暫く天井を見ていたら
昨日の事が遠い日の事みたいに思えた。
「お風呂・・・ お風呂入ろ」
自分に言い聞かせるようにベッドから起きた。
ぬるめのお湯に浸かっていると
湯気が春の霞みたいに私を包んだ。
まだ少し 頭はフラフラするけれど 吐気は治まった。
長風呂から上がると おなかが空いてきた。
そんな自分に笑ってしまう。
テーブルの上には、昨日 美加ちゃんが作ってくれた料理があった。
テーブルの縁を 指でなぞる。
あのコの想いが そのまま そこにあった。
ピンポーン
インターホンが鳴って 少し緊張した。
壁の時計を見ると 正午を少し過ぎている。
「はい・・・」
ドアを開けると美加ちゃんが立っていた。
「こんにちは。 入ってもいい?」
普段と同じ 元気な姿に 少しびっくりした。
うなだれている とでも思っていたのか 私は。
「あ、ああ・・・うん」
ドアをもっと開けたら 美加ちゃんと一緒に外の冷気も入ってきた。
「あれ? 由季さん、いい匂いがする。 今 お風呂入ったの?」
「ん? ああ・・・ さっき上がったとこ・・・」
「え~。 もっと早く来ればよかったな~。 なんてね。へへ」
美加ちゃんは いつもの美加ちゃんで 明るく振舞ってくれた。
「あの・・・美加ちゃん」
「あ!やっぱり!食べなかったんだ。せっかく作ったのにさ」
美加ちゃんは私の言葉を遮るように
そのままで置かれた料理を見て
頬を漫画みたいに プーッと膨らませた。
「今 温めるから待ってて。ごはん ちゃんと食べなきゃダメだよ」
「あのね、美加ちゃん」
「話は後でいいでしょ・・・ごはん食べたら ちゃんと聞くから」
ガスコンロの前で 私に背中を向けたまま そう言う美加ちゃんは
昨日までより 大人に見えた。
自分が恥ずかしい。
決して そんなつもりは無かったけれど
私は 十ほども離れた美加ちゃんを
大人ではなく子ども扱いしていたんだ。
「すごいね・・・・ 美味しそう・・・・」
「美味しそうじゃなくて 美味しいの。 どうぞ召し上がれ」
「はぁ・・・ いただきます」
温めなおして更に手を加えたみたいで
普段の美加ちゃんのイメージと用意してくれた料理のギャップに驚いた。
「どうでしょうか」
「すごいね・・・お料理上手だね・・・」
美加ちゃんは 「でしょ?」と 笑顔になる。
(良い奥さんになるよ。 美加ちゃんと結婚する人は幸せだね)
おもわず そう言いそうになった。
「実はね、アタシ工場辞めるの」
「えっ? そ、そうなの?」
なんでも 親御さんが料理屋を始め そこを手伝うのだという。
「父さんの夢だったの。てっきり もう諦めてると思ってたんだけど」
フフッと小さく笑う。
「アタシも調理師免許取ろうと思ってるの。頑張る。
ただ・・・由季さんに 毎日会えなくなるのが・・・ 」
美加ちゃんは お茶の入った湯呑みを 両手で囲んで少し下唇を噛んだ。
「昨日は ごめんなさい」
「・・・・・あ、ああ・・・ ううん・・・」
「今日来たのはね、アタシ会社辞めちゃうけど
このままだと由季さんとしゃべれなくなると思って・・・・それはイヤだから」
私は卑怯だ。
気持ちに応えられないのに美加ちゃんの手料理を食べ
もう来ないでとも、ありがとうとも 言わず
ほんの少しだけ微笑む自分が とても卑怯な人間に思えた。
それに頭の隅で 仕事の事も考えてる。
上手く仕事をこなす美加ちゃんが辞めると テイさんたちに負担が掛る。
そういう、 どこか冷めたい自分が嫌になる。
「昨日 具合が悪そうだったけど・・・大丈夫?」
「ん? ああ、 明日ね 病院にいくつもり。 少し貧血かもしれない」
「え、会社休むの?」
「いや、 午後の診察が夕方からの病院があるから。行った事無いんだけど」
会社から少し行った所にある大きな総合病院ではなく 小さな診療所。
「ねぇ。由季さんさ、どもらなくなったよね」
「・・・・え?」
そういえば・・・そうかもしれない。
言われて初めて自分の変化に気づく。
「それは・・・琴子さんのおかげ?」
そう言われ 美加ちゃんを見た。
「あ、いいのいいの。何でもない。答えなくていい」
すぐに目を逸らされた。
窓に目を移すと 小さな花のような雪が降ってきたのが見えた。
§
「貧血ですね」
女医の篠原聡美さんが カルテにスラスラ何かを書いていく。
仕事を定時で終えて 帰りに診療所へ寄った。
混んでいるかと思ったけれど 殆ど人はおらず、
私はすぐに診てもらう事ができた。
「土曜日に もう一度来られますか?」
「はい」
「お薬出しておきますから 後で受け取って下さいね」
「はぁ・・・ あの・・・先生」
「はい?」
「あの、 た・・・ 対人恐怖症って 治るんでしょうか」
篠原先生は 持っていたペンを机の上に置き
「 んー 」と 考えて答えてくれた。
「私は専門じゃないから・・・ でも・・・そうね、
ちゃんと専門医に診てもらって カウンセリングも受けて時間を掛けていったら
少しずつ良くなっていくと思いますよ」
「カウンセリング、 ですか」
「専門の医師を紹介しましょうか? えっと・・・貴女がそうなの?」
先生は 慎重に訊いてくる。
「あ、いいえ・・・・すみません。ちょっと訊きたかっただけですから」
「そう。 良ければいつでも言ってください」
診察室から出ると外が真っ暗になっているのが分かった。
冬は夜になるのが早い。
会計も薬を受け取るのも すぐに終わって出口に向かおうとした時
「外山さん」と後ろから声を掛けられた。
篠原先生だった。
「忘れもの。 マフラー」
綺麗にたたんで 持ってきてくれた。
「あっ どうも すみません」
「外は寒いから。 はい」 と手渡して・・・・くれると思ったら
たたんだマフラーを広げて 首に巻いてくれた。
「お~ 背が高い」
「す、すみません。ありがとうございます」
なんだか恐縮してしまう。
「外山さん、ご近所ですよね?」
「え? いえ・・・ ここからは離れてますが・・・」
先生はフフフと笑って
「この病院とじゃなくて 私と」と言った。
「え・・・? あ、そうなんですか・・・」
てっきり裏の大きな家が先生の住まいだと思っていた。
あ、そうか。 ここは先生の実家なのかな?
「ショック。 私よく見かけるんだけど」
「・・・・ はぁ・・・ そうですか」
こういう時 なんて返していいのか分からない。
先生はプッと笑って
「じゃ、土曜日。 お大事に」 と診察室に戻っていった。
診療所から出ると 暗くなった空から 雪が降り始めていた。
暫くそのまま空を見ていた。
頬に当たる小さな雪が 涙のように伝って そして消えてゆく。
ただ その冷たい温度だけを残して。
いずれ消えゆく雪の中に 琴子さんの姿を感じて、
私は 彼女の家に向かって歩き出した。
つづく