「も、もたない って、どういう意味ですか」
鼻から落ちてくる血をティッシュで拭き取りながら結城さんに訊ねた。
「・・・由季さん・・・」
やめて。そんな哀れな目で見ないで。
「大丈夫です。 最近、直ぐこうなるんです」
そんなの嘘だ。
嘘だって 相手は多分分かってる。
「琴子は普通じゃない。 君がボロボロになる」
普通・・・・? 普通って何よ!
顔をしかめたら 目の下がピクッと動いた。
「できるなら 琴子の事は忘れた方がいい」
「あの お客様、 大丈夫でしょうか・・・」
店員が私の鼻血に気づいて傍に来た。
「平気です。 すみません、 テーブル汚してしまって。
も、申し訳ありませんが 消毒お願いします」
私は席を立ち 彼に少し頭を下げた。
「帰ります。 あの・・・ 御忠告 有難うございました」
バカじゃない?! 御礼を言うなんて。
もう一度 会釈をして店を出た。
早くここから離れたい。
うろたえてる姿を これ以上見られたくない。
バスの中で眼帯を外したら
暗いと思っていた緋色の夕空が 眩しく感じられた。
建物と建物の間から暖かな光のすじが 切れ切れに飛び込んでくる。
私の心に 囁くように。
本多圭さんのバイオリンの 撫でるような優しい音色を思い出した。
§
「洗濯物 入れなきゃ・・・・」
アパートに帰ってきたら 急に頭がクラクラしだした。
明日は祝日か・・・
仕事が休みで良かった。
暫くしたあと インターホンが鳴った。
誰だろ。 立ち上がるのもしんどい。
「はい。 え? 美加ちゃん」
美加ちゃんが 食べ物が沢山入った買い物袋を持って立っていた。
「差し入れ って変か。ハハ。 ね、一緒にごはん食べようよ」
「よく・・・・ここが分かったね」
「ごめんね。 後つけてきたの」
「ええ?」
「同じバスにも乗ったんだよ。外山さん全然気がつかないの。 鈍感」
にっこり笑って キッチンでガサゴゾ袋を開けていく。
「この部屋が分かった後にね 買い物に行ったの。
スーパーが近くて便利だね。 このアパート綺麗だし イイね、ここ」
私は溜め息交じりで 苦笑いした。
鼻血のせいかな。 フラフラする。 貧血か?
「外山さん 何もしなくていいよ。 アタシが作ってあげるから。
上手いんだよ、これでも」
私は立っているのが辛くて 座り込んで壁にもたれていた。
背中を向けて美加ちゃんが言う。
「あのさ・・・ あの人、 何て名前なの?」
「・・・・あの人?」
「今日。 一緒だったんでしょ?」
見られてたんだ。
そうか、前もあの場所で見られたんだった。
「あぁ。結城さん っていうの」
言葉に力が入らない。
「そっか。 結城さんっていうんだ。 へー」
結城さんは 私を打ちのめしに来たのか。
あの人もまだ 琴子さんを想っているから?
普通じゃないなんて よくそんな事が言える・・・・
あ・・・ でも。
そうだ、私も 同じ酷いことを思ったんだった。
琴子さんに初めて会った時 普通じゃない って。
なんだか 吐気がする・・・
頭が痛い・・・・
「じゃあ もし外山さんがあの人と結婚したら ユーキユキになるんだ」
「・・・・結城・・・・ フッ。 ハハ・・・・
そうだね・・・・ ユーキユキになっちゃうね」
やめてよ。 ゾッとする。
「変な名前だね」
私を笑わそうとしているのか分からないけど 面白いコだな・・・
「そんなんじゃないよ。 あの人とは」
「・・・・ うん ・・・・」
「ちょっと・・・美加ちゃん、 悪いんだけど 少し横になってもいい?」
「え? なに? どこか悪いの?」
「ごめん・・・・今日は・・・もう 帰って・・・・」
「由季さん 顔色が悪いよ。大丈夫?」
返事をしたかどうか。
私はベッドに倒れこんだ。
§
(由季さん・・・ 由季さん・・・)
誰か呼んでる。 琴子さん?
うっっ 痛い・・・
首が苦しい・・・何か・・・ 刺さった?
「由季さん、ねぇ 由季さん」
重い瞼を少し開けた。
「美加ちゃん・・・? え・・・ なんで? まだ いたの・・・?」
「起こしてごめんね。 あの、おもてにね。 誰か来てるの」
「・・・え?」
「具合悪くて寝てるからって 帰るように言ったんだけど
もう少し待ってる って言うの。 怖いよ なんか」
「今 何時? 朝? 夜?」
顔に掛った髪をかき上げながら訊ねた。
「夜 九時半・・・かな」
誰よ・・・ もう・・・
起き上がったら 少し目の前が回る感じがした。
「ちょっと、大丈夫? やっぱり あの女の人には帰ってもらうよ」
え?女の人ってまさか・・・
いっぺんに目が覚めて急いで玄関に向かいドアを開けた。
「・・・こっ・・・」
「あ・・・ 由季さん大丈夫なの? 具合が悪いって・・・・」
琴子さんが目の前に居る。
その事が こんなに嬉しい。
「恭さんに 会ったの? 何か言われたの?」
心配そうに私を見つめるこの人が 愛しくてたまらない。
「ううん。 別に・・・」
顔を見たら目に涙が滲んできた。
自分が今 どんな風に琴子さんを見つめているのか分かる。
普通だとか 普通じゃないとか どうでもいい。
理由なんかいらない。
この人に触れたいと思った。抱きしめたいと思った。
でも 手を伸ばしたのは 彼女の方だった。
「ボタン・・・」
シャツのボタンが胸元まで開いていた。
苦しくて寝てる間に開けたんだ きっと。
慌てて自分でボタンを閉めていると指で 首を撫でられた。
一瞬で全身が総毛立つ。
反射的に 瞼が強く閉じた。
「首 キスマークついてる」
「え・・・ええっ?!」
自分では どこなのか確かめられないのに
覚えの無い“痕”を手で探した。
血の気が引く。
その時 彼女は羽根を広げるように私の体を包んだ。
「由季さん いいのよ。私 あなたの事がこんなにも好き」
溶けそうな抱擁と 求めていた囁きに頭が変になりそうだった。
「また会いましょう。 私、ここにまた来るわ。あなたも私の所に来てね」
「こ・・・・ ちょ、ちょっと待って・・・」
追いかけようとしたが眩暈を起こしてその場に崩れてしまった。
行かないで。
ドアの閉まる音が 静かに響いた。
闇に 魂ごと 持っていかれた気がした。
「やっぱり あの人が“琴子”って人なの?」
動けずに座り込んだままの私に 美加ちゃんが訊ねてきた。
「・・・・ 関係ないでしょ 」
何よ やっぱり って。
「美加ちゃん・・・・一体 何をしたの・・・・」
「ア、 アタシがつけたんだよ、キスマーク。
由季さん、気付かないんだもん。鈍感だから」
もう・・・ もう何言ってんのこのコは!
「寝てる間に・・・・ 具合悪いんだから気付かないでしょ 普通!」
「ほらね。 やっぱり全然分かってない。 由季さん鈍すぎるよ!」
私は振り返って睨んだ。
が、美加ちゃんが 涙を一杯溜めていたから驚いた。
「あの人が来た後 由季さんに直ぐに声掛けたんだよ。
そしたら 由季さん アタシに向かって琴子って言ったんだからね!!」
う・・・ 頭に響く・・・気分が悪い・・・
あぁ あれは夢じゃなかったんだ・・・・
「あの人を見たら 由季さんをどう想ってるのか直ぐに分かったの。
由季さんが言った“琴子さん”だって思った。
・・・・ だから ・・・
あの人に 見せつけてやりたかった。
結城さんなら 男の人だから しょうがないと思えるけど
あの人に由季さんを取られちゃうのは イヤだったんだよ!!」
美加ちゃんは爆発させるように言い放って 部屋を飛び出した。
その時 突き飛ばされて 私は壁に頭をぶつけてしまった。
「うう・・・・ いっっ た・・・ 」
立ち上がることも出来ず 這いながらベッドに向かった。
ベッドに落ちた後 誰の事も思い出してはいけない気がした。
泣けたら どんなに楽だろう。
でも、自分を思うと 情けなくて
一滴の涙も出なかった。
つづく