公演会場は 電車で一時間ほどの所にある。

少し家を出るのが早かったか・・・・

いや、 遅れるよりはマシだ。

電車が混んでいると思っていたが

割と空いていて 最初からシートに座る事ができた。

二十代だけど 普段立ちっぱなしなので助かる。

クラシックコンサートなんて行った事が無いから

何を着ていったら良いのかさえ分からない。


断ろうとも考えたが・・・・

私は琴子さんと出会ってから

彼女の希望通りに動いてるような気がする。


ふいに遠い記憶の中の母を思い出した。

好きになった誰かに 尽くして尽くして騙され

そしてそれを繰り返す女。

私は早いうちから 母親と云う期待を捨てた。

ああはなりたくはないと思っていた。

が・・・・

もしかしたら私は

あの母に似ているのかもしれないと初めて感じ 少し笑った。

まだ尽くしてもいないし 騙されてもいないけれど。


窓の向こうの柔らかな夕陽が 

硝子を通して白く濁り、

嫌でたまらなかった母の記憶を溶かしていった。


§

会場はもう開いていた。

入り口でチケットを渡し、中に入るとロビーみたいな所に客が大勢居た。

あちらこちらで会話が繰り広げられ とても華やいでいた。


私は急に 場違いな所に来てしまったように思えて

さっさと自分が座る席に向かった。

あぁ 結構前の方だな・・・

前から5列目の ちょうど真ん中くらいか。

後から同じ列の人が来ても 真ん中だから立ち上がらなくて済む。


端の席の人は そういう事を踏まえてギリギリに来るんだろうか・・・

私は振り返って 会場全体を見渡した。

この中に 私のように部品工場で働いている人はいるだろうか?

私のように この演奏会が初体験って人はいるだろうか?


皆こういう場所に 慣れている感じがした。


§

場内が暗くなり 一気に静けさが訪れた。

クラシックの事は何も知らないけれど

少し胸がドキドキする。

楽器を持った人達が音を合わせ、

指揮者がステージに現れた後、また静かになった。

今度はさっきよりも静まり返っているようだった。


ワーッと 拍手が沸き起こり本多圭さんが登場してきた。

静かだった分だけ 拍手の音が痛いくらい耳に響く。

まだ演奏もしていないのに なんでこんなに拍手するんだろう。

彼女の事を知らない私には 皆の拍手の大きさが不思議に思えた。

が・・・・演奏が始まって

此処にいる皆が大きな拍手で彼女を迎え

期待するわけが解ったような気がした。


薄紫のシンプルな衣装がとても優美で、

美しい顔立ちの彼女は

誰にも採ることのできない場所に咲く蘭の花のようだ。

それに バイオリンの生の音が

こんなに響いてくるなんて思いもしなかった。

小さな小さな音まで綺麗に響く。

音が降ってくる。

初めての感覚だった。


あぁ、同じだ。

演奏家は会場全体に同じように この音を届けようとしている。

聴く私達が感じる事は それぞれ違うんだろうけれど。


ここにいる皆 ひとりひとりに届けようと

音を降らせているんだ。

きっと・・・・


§

公演が終わり 私は急いで会場を後にした。

琴子さんに会いたかった。

一刻も早く。

帰り、電車の各駅でドアが開く度に

さっきまでの高揚した気持ちを

サ~ッと流れ込む空気に持っていかれそうな気がして

私は両腕で胸を抱えるように なるべく小さくなって座っていた。


彼女の家に着いたら母親が出てきた。

「や、夜分 すみません。琴子さん いらっしゃいますか?」

「どうぞどうぞ。お上がりになって下さい。

今入浴中ですがすぐに上がりますから」


客間で待っていると 母親が珈琲を出してくれた。

「今日・・・行って下さって 有難うございました」

「え。 あ、ああ いえ・・・とても素晴らしかったです。

琴子さんに御礼を言おうと思って・・・」

「いつもは私が代わりに行くんですけど・・・良かったわ。喜んで下さって」


え?


「由季さん、来てくれたの?」

母親の言葉に気を取られていたので 声を掛けられて驚いた。

布もマスクもしていない お風呂上りの琴子さんだった。

「あ、 こ こんばんは・・・ コンサート、行って来ました」


ほんの少し微笑んだ彼女の瞳は

どうしようもなく切なく潤んでいるように見えて

私はおもわず 咳き込んでしまった。

胸の奥が 狭くなったような、縮まったような気持ちになったから。


「部屋に行きましょうか」

思えば琴子さんの部屋に入ったのは

この時が最初だった。


部屋の前の突き当たりにある窓から

腰掛けられるんじゃないかと思うような月が空に掛っているのが見えた。

     つづく