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 一日一食アントルコートの日の翌日は、じつにあの旅らしいものが食べ物としては続いていました。昼食は、蕎麦粉のギャレットですが、あの旅最後のものはパリ最終日の定植でしたが、その日はほんとうにブルターニュ気分の再発で、アンドゥイユとバターだけのゲメネでした。あの旅ではブルターニュには行きませんでしたが、ブルターニュに行くための駅であるモンパルナス周辺への宿泊。これも自分のパリでの居所だったのです。かつての留学地だったストラスブールとの行き来は、とにかくあの旅でもひたすら東駅だったのですが、パリでの滞在となると、とにかくモンパルナスが居心地良くて、やはり大昔のイタリア旅行で、同じトスカーナなのに、なぜシエナからフィレンツェに入ったときに安堵したか、いろいろ考えたのです。フランスではとにかくストラスブールの居心地が良かったし、イタリアではミラノとボローニャ。けっきょく平らなんです。東京の城東地区出身の私は、平らな街が最高なのです。生きて帰ったからには、またヨーロッパに行きたいのですが、そのときどれだけ高齢になっているかもしれません。山登りに相当する街は無理ですね。やはり平らなところにまた行くでしょう。2012年はそのときだからこそ丘を登ることにもしました。
 で、あの日ですが、昼食は過去のブルターニュの締めくくりのゲメネでしたが、そのあとに郵便局で荷物を送るための段ボールを買った上で、カフェでビールを飲んでいると、目の前にカンタル料理店。昼にモンパルナスならではの食事クレープ屋、夕食はあの旅で初めて行ったオーヴェルニュ、死ぬ前の最後の晩餐を選べるならソシス・アリゴとおもっていたところが、もろではありました。ふたたびあの登山のようなクレルモン=フェラン再訪というのも想像できません。オーリヤックは盆地の底の平地が中心街ですが、交通的にはあの旅の最奥地でした。というわけでいきなり見つけたモンパルナスのカンタル料理店ですがソーセージが、それまで食べたことのあるものとはちょっとちがう、オーヴェルニュ出身の食文化評論家のプティルノーが昔テレビでパリのサントノーレ通りのビストロを紹介したときに紹介していた、ソシス・ア・サンチメットルという、長い腸詰めから注文の長さで切り取ることが基本の、それ自体は端が結ばれていなくて、ただの断面なので、焼けば肉汁が逃げてしまう、ちょっと雑なものでしたが、切り落としたソーセージ自体が長ければ、それなりに肉汁も残っています。もちろん最初に端っこを焼き固めてしまうことで流出を防ぐこともでき、最初に出てきたときの断面では、そうしている様子です。かつて、留学からの居住を引き払うときのパリのホテル滞在で、一番の贅沢だった、2012年には行かなかったパリで最も知られているオーヴェルニュ料理店と同様、係がアリゴを目の前で鍋で練って、そこから盛り付けてくれました。このパフォーマンスはじつは本場では見ていなくて、自分で練って、隣の家族の子供に見せびらかしていたりしましたが、あの店をモンパルナスで見つけていなかったら、右岸のシャトレまで行っていたことでしょう。そのかつての店にしても、旅の半ばのモンパルナスでたまたまアリゴを出しているビストロに遭遇したときも、かなりなめらかで、イモの粒子のざらつきを感じなかったのですが、そこでは感じました。じつは本場でも感じていなくて、トゥールーズのアリゴバーが、なめらかな、ほとんどフォンデュのような感覚でしたね。で、モンパルナスで最後にカンタル料理を食べた店のアリゴは、それまではなかった、アリゴにかなりのにんにくの存在感がありました。係に、オーリヤック滞在を想い出すよ、とおそらく東洋人の客から聞くことはないであろうことを言うと、山オンチの私にはわからない山の写真がテーブルクロスの紙にあるのを嬉しそうに指さしました。
 というわけで、モンパルナスにアリゴを出す店が二つもあったことで、一番有名な店を再訪する必要がなくなってしまったのです。なにぶん、最後の晩餐ということで考えると、どうせ死ぬ日に食べ物を選ぶことができるはずもないのですが、昼は日本料理でたぬきそば、夕食は一皿目はイタリア料理のラグー、つまりボロニェーゼをなんらかのパスタで、そしてメインはフランス料理のソシス・アリゴ、ということで、デザートは夏ならコロネルですが、冬ならザッハートルテかなと思ったりして、アルザスを置き去りにしてしまっているので、食後酒として最後はアルマニャックではなく、ゲヴュルツトラミネールのマールにしましょうかね。そうやって死んでいければ理想ですが、ありえませんね。だから、生き恥でももがくしかないのです。よく世界三大料理になぜ日本料理がないのかとネットでアホな質問をする人が居ますが、どうせ世界三大料理なんて、日本人が決めたお遊びをマスコミが持ち上げているに過ぎません。プロの食ライターならそれにのっかったほうが儲かるでしょうから、疑問を呈するのは私のような素人だけです。ヨーロッパ発祥という説もありますが、出典が皆無。とても信用できるものではなく、権威付けのためにそういう方向に導こうとしているだけでしょう。なにしろそのヨーロッパでは、世界三大料理などという言葉は、ただの一度たりとも聞いたことがありません。ただの一度もです。かつて帰国してから、フランス料理と中華料理はともかく、次がイタリア料理でも日本料理でもないことに唖然としました。日本人が勝手に決めた以上、日本料理を入れると自画自賛になってしまうから、手前味噌への遠慮で、日本料理を入れなくて、トルコ料理を入れているわけですね。ケバプ以外知りもしないのに。この謙虚さがなおさら日本発祥説を裏付けています。けっきょく私自身が最期の日に食べたいものは、日本料理のたぬきそば、イタリア料理のラグーのパスタ、フランス料理のソシス・アリゴとなります。世界三大珍味もどうせ日本人が決めたのでしょうが、最後の晩餐にあえて、と思うものはひとつもありません。自分なりに編み直したいところですが、魚を排除してしまうので、このわたと酒盗を入れることもなく偏りそうですね。獣肉の内臓からいつか選んでもいいかなと思います。どうせ元が日本人が選んだだけのものでしょうから。ちなみに世界の大学ランキングも、華僑系の英語のできる中国人が英語の知識だけでつくったようなので、気にしてもしょうがない部分があります。名前の関係上、ヨーロッパはそこそこの都市の国立大学がその都市の名前を冠しているわけで、その一部の建物が、ソルボンヌとかフンボルトというわけで、じっさいはパリ大学の学生は、古典はソルボンヌで学びながらも、日本語を外国語に選ぶとほかの施設で単位を取るわけで、日本の大学のように自分の大学以外の単位を混ぜようと思ったら数少ない提携大学のかぎられた講座しかないというのとは根本的にちがいます。米国ともなると、シュワルツェネッガーは、それぞれは四年通ったわけではない二つの大学の単位を通算すると卒業認定できそうだから、両方の大学に単位互換を申請したら、認められて、二つの大学から学士号が贈られて、専門がちがうので学士号が二つという、日本ではありえないことになります。大学を出ていない映画評論家が、学位というものが何かしらないゆえにシュワちゃんが博士号を二つも持っているという誤報を流したこともありました。普通の大卒ですよ。いずれにしても国際的には学位取得が学歴なので、大学のランクで高学歴が決まるわけではありません。東大だって中退したら国際的にはただの高卒なのです。だから外国でどうこうと考えているなら、どの段階の学校かはともかく卒業はしましょう。専門学校だと卒業よりも資格がすべてという部分はあるかもしれませんが,国内では重視される資格も学位よりも国際的な互換性が乏しい傾向があります。つまり、それだけ日本は学歴社会ではなく、日本人が実力主義だと勘違いしている海外のほうが、学歴社会が強いのです。
 パリ滞在の最後の日前夜は、昔からいつも羊です。修学旅行のときに北海道でジンギスカンがやけに美味かった記憶がありましたが、初旅行ですでに、フランス料理での最高の肉としてのランクの仔羊が、やはり素晴らしかったので、留学中もレストランではよく食べていました。そういう、国内で目醒めた味覚を海外と比較、ということで考えると、修学旅行で海外、というと、やはり歴史の深いところであるべきで、私立のお嬢様高校がパリやローマならいいのですが、公立学校が金持ちの遊び向けの街に、というのは疑問を感じます。なにぶん、過去の旅のなめ直し中心の2012年で、ここまでやったのがこのブログです。最後の飛行機で自分が死んでしまうかわりにと追悼しながらの羊です。自分で焼くとなると、加減が難しく、練習をあまりしなくて、とにかく牛肉だけはうまく焼けるように定期的に焼いていました。ちなみに北海道のジンギスカンが匂いが強くないことについて、乃木坂の引退前の橋本奈々未さんが、番組で、北海道では、さっきまで生きていた羊を食べるんです、と言ってみんな騒然となっていましたが、あの屋外バーベキュー以来、ジンギスカンは食べていませんね。ただ、日本での学生時代に、同人誌の集まりが、北海道出身のポルシェを乗りこなす女性の先輩のアパートで開かれたので、羊をステーキにしてくれて、やはり自分ではこんなにうまく焼くことができないと思ってしまったりして、その後留学して焼いてみても、やっぱり叶わないなと思ったりしました。女性の先輩だけに、そんなに自分は好かれていないかと思っていましたが、当時偶然銀座で遭遇したとき、煉瓦亭でハヤシが食べたいから一緒に来て、と言われて、私も初煉瓦亭でしたね。フランスとなると、ドゥミグラスソースは一般的でなく、その元となったソース・エスパニョルでないとみんな知っているソースということにはなりません。ソース・エスパニョールになるまで煮詰める段階を半分にしたからドゥミグラスというわけです。2012年はソース・エスパニョルがあったかどうかは、写真を全部見ないとわからないくらい記憶になく、茶色いソースと言えば、シェフがつくったソースではなく、バルサミコ酢でした。もちろん日本のウスターソースのようなものは皆無です。元が英国のウースターソースだから皮肉ですが。フランスのテーブルソースは、やはり酢の入ったマスタードですね。初旅行でエールフランスの機内で食事が始まるたびに通関しました。2012年はスイスとドイツの飛行機だったので、それがなかったんですね。
 帰国後の絶望的な人生を考えると、悲しくなってもいて、とにかくまともな食事を時間的に逃しても、カフェでビールを飲んでいましたが、テロ警戒期とはいえ、昼は右岸でも、夜はモンパルナスなので、殺されてしまうイメージはなく、帰りの飛行機が落ちたら死ぬな、と思ったのですが、乗り遅れて一番安全なルフトハンザになってしまったので、生きてブログを書くしかないという感じでした。もっとも、予定だったスイス国際航空も、倒産した前身のスイス航空は倒産の原因になった墜落事故までは死亡事故皆無で世界一安全な航空会社だったわけで、危険なはずもありませんでした。ただ、最近は、主翼の上でCAが踊る動画をネットに上げたということで、高さとして落ちれば死んでしまうようなものだけに、危機意識について疑問符がついてきますが。何度も語っていますが、飛行機は統計的にほかの交通機関よりも圧倒的に安全と言われますが、大型の長距離便がめったに落ちないからで、小型機はよく落ちています。先日もプリゴジンの飛行機が落とされましたね。それ以前にも、なぜ戦争地帯を通過するのかわかりませんが、アジア系の旅客機が撃ち落とされています。そして、ヘリコプターに関しては、日本だけでみても、一機も落ちなかった年は記憶がありません。大陸間の長距離便は雲の上を行くので、乱気流の影響が小さく、短距離は逆にぐらぐらです。初旅行のときからそれは痛感していました。初旅行のときは、高いエールフランスの航空券でしたが、パリ・ヘルシンキ往復を最高距離とする航空券なら無料でつけてくれるというので、はるかに短いですが、ミラノに往復しました。往路はフランス人とイタリア人の利用客を満足させる昼食ですから、現地食文化を無視したいタイプのわがままな日本人には向きませんが、最初から赤葡萄酒が250mlではなく500mlセットされた、人生最高の機内食でした。味覚的にも、文化の勉強としても。選択肢がかぎられているというのが、じつは文化です。留学のときは、とりあえずエールフランスでパリ入りすることなくロワシーで嵐の中で国内便のエールアンテールに乗り換えて、びしょびしょのエンツハイム到着で、税関でいろいろ所持品について説明しているうちに服も乾いてしまってのタクシーでのストラスブール入りでした。次のタクシー利用はその何年もあとの、悲しい帰国のときに、旅なら歩いてしまうところを、居住帰国なので荷物が多くて、ホテルからそんなに遠くはない駅まで。そして2012年は、じっさいにはエールフランスを使っても料金は同じくらいだったのですが、それは帰りの遅刻ゆえで、もう少し安くするために、ヨーロッパ内の乗り継ぎ。というわけで、大陸間便は大型機ですが、ヨーロッパ内は中型機です。こっちのほうが落ちやすいのです。とくに旅の始まりはチューリヒに嵐が来たので何時間も出発が遅れたし、あれが時間通りに強行されていたら、雷にでも打たれていたかもしれません。基本的に雷で飛行機は落ちないのが普通ですが、中型機は大型機ほど電流を発散できないし、小型機だとやはり落ちやすいですね。こういうのを電源にする研究が進めば、幽霊も電流で消費してしまうことができそうですが、難しいのでしょうかね。さすがに旅の終わりでなく最初に死んでしまうと心残りも大きいので、これから旅する方々にも、最良の選択をしていただきたいと思います。現地価格が高騰していますが、やはり安全を考えると、飛行機はできるだけ直行がいいですね。私も失業者の身分だったから、エールフランスは身分不相応と思って、もっと安いところにしたのですが、結果的にはルフトハンザでの帰国になってしまったので、差額で最初からエールフランスで行くのとy変わらなくなってしまって、利点としては、ドイツ語圏の航空会社を三つも使ったので、ナンチャッテ留学なみのドイツ語機内留学になったことでしょうかね。
 旅の最後の段階は、すでに書いたように、やはり最終日に生け贄の羊を食べるのですが、その前は、旅の中で食べたものをもう一度食べ直すのと、食べ忘れていた開国料理としてのギリシャ料理と日本蕎麦ですかね。ギリシャ料理は、初パリのときに食べて、嫌いだった茄子を克服した過去もあるので、かつてじっさいにギリシャに行った経験もある上で、またパリのサンミシェル界隈で食べたいと思っていたのです。そして、あの旅では友人の自然食レストランでアジア的なものを食べてはいましたが、中華も和食も一切食べていなかったので、パリの日本料理の現状を見たくて、かといって魚はそんなに好きではなく、現在ではほぼまったく食べたくないくらいなので、寿司屋ではなく、首都でなければ成り立たない蕎麦屋に行きました。手打ち蕎麦そのものが留学前以来だし、現在もその後、機械打ちしか食べていません。セーヌ左岸のソルボンヌ周辺はカルチエ・ラタンと言われ、とにかく昔の大学はラテン語が教育言語だったので、大学地区=ラテン語圏でもありました。このブログでもフランスのみならず、イタリアとスイスに遍在するラテン語に注目してきました。かつてのフランス居住を引き払うときも、日本帰国前の段階で、もう大学の単位も関係ないし、博士論文を書くのも無理というところで、ただ勉強として、ラテン語学習を、齧る程度でしたが、していました。けっきょく全然たいしたこともしていないことは帰国後に痛感するのですが、そのヨーロッパ居住末期のラテン語と向き合う姿勢で、2012年の旅もありました。まともにラテン語を勉強したわけではないので、対決したとは言いません。ただ向き合っただけです。かつての帰国の時にイタリアでギリシャ・ラテンの古典の書物を買って、その後読む機会もなかったこともあり、2012年は本を買いあさるということがなく、ガイドブックだけ現地でいろいろ買って、旅の初日に目が悪くなってしまいましたが、逆に古典文献はかつての帰国時に充分に買っていて、あの旅では最新情報のガイドブックだけ買えば良い状況だったとも言えます。一般的な情報に関しては、ガイドブックも最新でなくても、持っていれば良く、あとは最新情報をネットで更新というところですが、ネットだけでまったくガイドブックを買わないという人々もいて、文責のない無責任な情報に振り回されてしまう原因かと思います。タダで読めるブログを書いている私としてはパラドクサルですが、旅先がいろいろある場合はガイドブック購入も全部というわけにはいかないだろうし、私も、2012年はパリとオーヴェルニュ・ピレネーは、フランス語のガイドブックを買いましたが、あとは,パリは最新情報が欲しかったものの、フランス東部はとにかくストラスブールは昔行ったところがどうなっているかを確認するだけでどうにかなってしまいます。ナンシーとランスは地方としては一都市だけなので、一泊にしないことで、二泊の間に自力でレストランを探しました。イタリアはたった四都市にそれぞれ日数をかけたので、昔知っていた店にしても、新たなる開発にしても余裕がありました。
 212年のパリのはじめは初旅行のときは必須だと思ったモンマルトルにふたたび行き、宿泊してしまいましたが、やはりモンパルナスこそ滞在したいところだったので、旅の最後に宿泊できたことは、Wifi(フランス語とイタリア語ではウィフィーです)が部屋まで届かない問題もありましたが、カードキーの磁力の劣化、部屋の清掃がかなり遅い時間にならないと終わっていないなどの問題もありました。しかし、やはりモンパルナスでパリ滞在を終えたかったのです。やはり平らな街で終わりたかったのです。それでいてアイドルグループは坂道グループが好きだったのですが、日本の芸能界で一番の美女だと思っていたはぶちゃんがやめるということで、デカフェチでもあるので、今回こそ時代が変わったのかなと思ったりします。これからは梅澤美波さん推しで。
 最後のモンパルナスで一週間以上とったのは、免税品としてデパートで買って帰るアルマーニジーンズが、デパートだと安いけれども直しに一週間かかることを知っていたので、同一のホテルにいたほうが連絡の関係上よいからでした。過去の経験を活かしたわけですが、パリを出る日のチェックアウト、リムジンバス、免税手続きのすべてに時間がかかって飛行機に乗り遅れ、差額が発生しました。これもまた経験ですね。まるっきりの買い直しよりは安いのだし。免税額の倍を航空券の差額に払ったわけですが、ブログのネタにはなりました。それに、ミュンヘン発のCAアナウンスのドイツ語が巻き舌だったり、オクトーバーフェスト行きだったりしたのも、帰国後東京でオクトーバーフェスト用のビールを飲むまで旅が半分続いていたり、損ばかりでもなかったのです。免税も、パブロというシステムが導入されたものとされていないものが両方混在する過渡期というのも、新旧時代の両方を体験する境目でもありました。翌年からは効率の良いパブロに一本化されましたが、昔のように税関に並んで飛行機に乗り遅れるというおそらく最後の経験でもありました。次は、まだ開通が遅れていますが、シャルル・ド・ゴール・エクスプレスで、ロワシーとパリ東駅が効率的に結ばれていることでしょう。パリ北駅でスリに遭うこともなく。しかし、ヨーロッパ最大の駅と言われる北駅にあまり良い想い出がなくて、2012年は撮影もしていないというのも、そんなに無意味では無いかなと思います。かつて高速列車がなかったゆえにいつもパリとストラスブールの行き来のときにさっさと次に行ってしまう東駅が、ストラスブール居住時代以上に、あのときはただビールを飲むためだけに行ってみたり、世界最新で最速のTGV発着駅としての貫禄があり、かつて一番好きだったから界隈に宿をあのときに取ったモンパルナス駅は、生ビールがハイネケンのプラスチックカップ。しかし、東駅は1664をちゃんとしたガラスのグラスでした。私もアルザスに居たから、フランスのビールとしてメテオールやサヴェルヌを知っていますが、やはり最大のメーカーはクロナンブールであり、その上位銘柄、ドイツに持って行ってもビールとして認定されるのは1664です。これをパリで東駅とは対角線的に反対側のモンパルナスで飲むというのも、地理的格差の、割高の贅沢感があり、安く飲むなら東駅で、というのも地理的格差ですね。あの旅で学んだことは、セーヌ右岸よりも庶民的なはずの左岸が、ビール価格を比較すると、けっして右岸よりも安くないということでした。もちろんふつうのクロナンブールであるか、1664であるか、ハイネケンであるかベルフォルトであるかいろいろ平均価格の比較はありえますが、短期滞在のツアーにはモンパルナスが入ることはほとんどないものの、友人と一緒だった初旅行ではモンパルナス塔だけのモンパルナスのあと、友人が先に帰ってからの部分はモンパルナスに行きたい、になり、ストラスブール留学時代からは、とにかくパリといったらモンパルナス、という具合になっていました。平らなモンパルナスへの愛が、最後には炸裂し、飛行機に乗る前にロワシー一泊をキャンセルしてモンパルナスに留まったことで飛行機に乗り遅れましたが、予定通り空港ホテルに泊まっていたら、Wifiでブログも書いて送信することができて、夕食も空港のファストフードよりもまともなフランス料理を最後に食べることができたと思いますが、最後までモンパルナス、というあがきも、自分らしかったと思っています。あの旅の最初は、音楽祭だからパリに直接乗り入れない、ということで空港近くのホテルの必要がありましたが、帰りはすべて時間的な余裕で飛行機に乗る前日にロワシー宿泊し、翌日に余裕でスイス航空にという予定でした。しかし、損をしたものの、できるだけ最後までパリに居たかったのです。モンパルナスに。東駅にシャルル・ド・ゴール・エクスプレスが開通すれば、最後の夜はそこにすれば、翌朝は余裕でロワシーに着きますが、これが工事が遅れてます。もしあのときそれが存在していたら、一泊分だけモンパルナスから東駅に移動しても、昼間はモンパルナスで蕎麦粉のギャレットでもいいわてです。あとは東駅前で、いまはブイヨン・シャルチエがありますが、最後の料理を私の定番の羊でなくても、シュークルートというのもありうるわけですね。パリでもシュークルートはポトフ以上の定番です。あれをドイツ的とか言う人はパリジャンではないし、フランスの味覚を理解していません。フランス人も含まれるゲルマン的とドイツ的を区別できない人は、すでに味覚オンチの極みです。勉強したほうがより味がわかるというのは事実ですね。目と鼻を塞いでかき氷を食べたら、どれも同じ味になるわけでしてね。食欲の話はこれくらいにしましょう。モンパルナスに咲く華もありましたが、モンパルナス墓地に眠る花もありました。

 

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