十一年前の今、フランスの南西部にいました。そこでバイヨンヌまつりに遭遇しました。かつてフランスに住んでいたときには、ピレネー方面まで行ったことがなくて、大西洋方面ではボルドー、地中海方面はプロヴァンスでした。スペイン旅行をしたときは、東京で一緒にフランス語を学んだ人がモンペリエに語学留学していたので、泊めてもらってからバルセロナに向かいましたが、カタルーニャ地方のフランス部分はタルゴ・カタランという特急列車に乗ったままで降りることはありませんでした。ストラスブール留学前に、ペルピニャン留学体験記というのを読んだことがあり、留学の手伝いをする団体も、そんなところに大学があるんですか? と言ったということだったので、ペルピニャン停車時はちょっと興奮しました。日本だとプロでも知らないところに来たんだなということで。とはいえ、あれから長い年月で、2012年に目指したのはカタルーニャよりもピレネー山脈の中にあるバスク地方でした。
 2012年の旅は、夏至のヨーロッパ入りになってしまっただけに、即日のパリ入りを避けました。フランス居住経験があれば、夏至は大きな街では音楽祭なので、空港ホテルで一泊しておくのが無難だと知っていることでしょう。だからわたしはまつりを避けました。ほんとうは、人生は祭りだ、を体現することができればどんなに良いだろうと若い頃から思っていたのに、あまりに成功できないので、刹那的ではなく、しぶとく生き残りながらの人生になってゆきます。
 そんな2012年の旅ですが、音楽祭を避けたのに、たまたま三つのまつりに遭遇しました。十一年前のこの時期になにがあったといえば、やはりピレネーのフランス側のお口ともいえるところにいたので、バスク地方のスペインではなくフランス側をめざしたのですが、生ハムで有名な、フランスのバスクの首都とも言えるバイヨンヌの宿の値段が高騰していました。なぜだかよくわからないまま、もっと大きな県庁所在地だけれどもバスクではないポーに宿を取ると、連泊の二日目にそこから日帰りでバイヨンヌに行くことにしました。日帰りなので気ままに、朝は場内市場を冷やかしたりしてのことです。すると、駅には白い服に何か赤いものを身につけるというパターンをと修した人々が、女性もズボンの裾を踏んづけて茶色致死ながらも駅のホームに集まっています。映像的な記憶では、この服装はスペイン側バスクのパンプローナの牛追い祭りや、トマティーノのトマト祭りのものなので、そこまで行くのか~とおもっていたのですが、列車に乗っていると、窓から見えるキャンプ場もみんなその服装です。バイヨンヌまつりでした。大昔も、求めていなくて、むしろ街の素顔を見たいと思っていたのにブラドリーという露天位置に遭遇したこともありましたが、とにかくフランス側バスク最大のまつりであるバイヨンヌまつりでした。スウェット姿で赤いものなどなにも持っていない私でしたが、とにかくバイヨンヌの街を見たいので、バス運行停止の看板を見たあと、どうせ明くるつもりだったから歩いています。
 これがあの旅最大の祭りです。その後、まつりを有料化するというニュースがありましたが、すぐにコロナ禍になり、そのあとは追っていません。ポー宿泊にせずに無理にバイヨンヌに宿泊していたら、とうぜん白い服と赤いスカーフを買って、まつりの狂乱に身を投じていたことでしょう。街じゅうの外壁にいきなりトイレ! とでもいうべきものが仮設されていたので、男性のあすこを見たい女性はその小道を歩けば充分でしょう。女性用のトイレはわかりませんでしたが、丘の向こうを見ていないので、露天しいしいの場所もあったのかもしれません。私もまつりだとわかっていて宿を取ったなら、そこに身を投じるわけですから、自分は日本人だからこれはできないとういうくだらないこだわりはありません。日本人であることを乗り越える覚悟がないなら、海外旅行は日本の旅行会社のツアーに徹するべきです。若年のホームシック前提の留学が金をドブに捨てる行為だと思うのも、その程度で洋行帰りを気取るんじゃねえよ! という、ズブズブにヨーロッパに浸かったことで就職もままならなかった人間の実感です。
 あの旅での最大のまつりはバイヨンヌまつりでしたが、ほかにもパリとミラノで、町を挙げてとも言えない地区のまつりち遭遇ています。バイヨンヌまつりは、露天で白い服と赤いスカーフを売っているところで買って、その場か便所で着替えて参加するという選択肢もありましたが、とにかく宿泊地はポーです。まつりめしを出している印書句点はいろいろあったのですが、バイヨンヌの生ハムがなく、スペインのハモン・セラノだったので、駅でビールを飲んで、次のバスク観光地であるビアリッツに行ってしまいました。バスク料理はけっきょくポー宿泊の最終日でということになりますが、とにかくまつりめしではないことで、その前の午後もカフェでセラノを生でなくて火を通していましたが、それはそれでした。バイヨンヌのハムは、フランスに住んでいたからにはもちろん初めてではなく、朝市で何度も買ったうえでほかの生ハムとの違いを比べても居たのです。そういうことでは、あの2012年の旅で食べたのは、ポー最終日でしたね。
 もっと期間と金を費やせるなら、あのかつて現地語旅行ができた国々をもう一度、ということでは、スペインに言ってもよかったし、あの旅では南米の人に話しかけられたので、スペイン語も使っています。ただ、スペインにもう一度、となると、スペインはフランスよりも大きいのです。西欧という区切りでは、日本よりも大きい国は、フランスとスペインです。あの旅ではドイツ語圏もスイスのチューリヒとベルンと、ドイツは一都市だけです。飛行機がとにかくドイツ語だったので、それであの旅はドイツ語もそこそこ使った旅になるし、飛行機でのナンチャッテ留学にもなっています。旅の三分の一近くはイタリアで、イタリア語滞在でしたが、あとはフランス語ですね。
 2012年は、オーヴェルニュには、人生最後の晩餐でもし選ぶことができるなら食べたいソシス・アリゴを、パリにもありますが、本場はどうなのか確認したくて、ふたたび行く可能性は低いけれども、あのときは行きました。そこからフランス側のバスクとしてバイヨンヌ宿泊を試みたら、ホテルが高騰。そのときは理由がわからなくて、ポー連泊にして、日が選りました。で、言ってみたらバイヨンヌまつりでした。知らずに到着してしまったので、白い衣装に赤いものをなにか身につけるということもせずに灰色のスウェットのまま街に入りました。無理矢理バイヨンヌに宿を取っていたら、服を買っていたことでしょう。あのとき露天の屋台で買うということも可能だったかもしれないのですが、宿をとっているわけではないので、食べたかったバイヨンヌの生ハムを探したものの、けっこう高級なので、スペイン国境に近いだけに、スペインのハモン・セラノのほうがそこらじゅうにあって、まつりの定食やサンドウィッチスタンドの中身もそうなっていました。それであきらめてしまって、バイヨンヌでは駅に戻り、ハイネケンを飲むだけとなりました。基本的に街の素顔を求めての旅だったので、旅の最初のフランス入国でも夏至の音楽祭を避けてロワシー宿泊をしたくらいで、まつりはひたすら偶然に遭遇しました。
 バイヨンヌ祭りでは即席トイレとして、そのへんの屋敷の壁に金属板を貼って、下は下水に流れるようにして、という、男性用としては露天丸出しトイレで、女性用のそれは見当たらなかったので、自分は脱がないけれども一方的に男性のそれを観察したい女性には最適の環境でしょう。あまりフェアではありませんが。とはいえ、フランスでもドイツでも、思わぬところでオシッコをしようとするおばさまたちは見かけたことがありまして、また機会があれば。でも、それを民度うんぬんで批判するべきではありません。男だったらやっちゃってるのですから。むしろトイレの行列で間に合わなくて前所か後ろを漏らしちゃってる写真もネットにはいろいろありますね。私もネット大喜利をやっていたのでお題として良くありました。なぜ今ネット大喜利に参加していないかについてはまた後日になりますが。
 というわけでバイヨンヌまつりは、その後、バイヨンヌ市にとってコストがかかりすぎるので、まつりの期間の中心街への入場料を取ることになったというニュースを見たあと、コロナ禍で中止になったりしていましたが、調べていませんが、さすがに今はやっていることだろうし、有料でしょう。まつりではなく、素顔のバイヨンヌに宿泊してバスクを求めたかったのができなかったわけですが、あのときしかタダでバイヨンヌまつりを観察できなかったことを考えると、あれはあれで僥倖でした。白と赤の衣装に制約されていない私は、ハイネケンを飲んだあとの午後はフランスのバスクの海岸リゾートであるビアリッツに行き、なんだかロシア語でしゃべっている美女たちを見ながらあの旅では飛行機から見えた日本海以外の唯一の海である大西洋を肉眼で見て、今度はビアリッツ駅でアルザスのビールを飲んで、ポーに戻りました。バスク料理はバスク地方ではなく、微妙にずれているけれども、フランス・バスクをかかえる大西洋ピレネーの県庁所在地のポーでピペラードもガトー・バスクも食べることになります。
 あの旅でのまつり遭遇は、バイヨンヌまつりのような町を挙げてのものではありませんが、ほかに二つあって、パリ周辺流れ歩きのときに、カリブまつりに遭遇しています。警官の交通整理、すくあとの清掃班の出動など、あまりにも効率的で、カッコいいと思いました。それを見ながら辿り着いた地下鉄駅はシャロンヌだったので、ストーンと降りてゆきました。
 次はミラノでした。これも街全体ではなく、界隈だけのものなのですが、泊まったホテルに朝から外のおけが聞こえてきました。今度は赤道まつりということで、やはりアフリカでなければ、ラテン系で、スペイン語とポルトガル語ですね。とにかく中南米の方々が大渡ありで踊っていて、かなり人気者だっただろうと思う女性が帰っていこうとする感じでしたが、やはりちゃんと男がいまして、みんなのアイドルではありませんでした。
 バイヨンヌでは食事はあきらめてしまったのですが、パリとミラノのラテン系のまつりは別の界隈に行けば平常なわけなので、すごく歩いても予定のうちで、ふつうに食べていました。つまり祭りは見ただけで関わっていないわけですね。かつては、人生はまつりだ、を体現できたらどんなに素晴らしいだろうと思ったけれども叶わず、学生という身分ではなくなってからはひたすらまつりは避けるとか、給料が出るので手伝う、とかそういう感じでした。
 フランスのテレビでは、テレビ局によって夏の音楽クリップというのがあり、ラテン系のものが多いのですが、夏の間ずっと流れているのが普通です。アフリカのものなどは無理矢理つくったうえ言葉もわからないので、飲食店では流していたものの、すぐに忘れられてしまう感じでしたが、スペイン語のものとなると刺さりますね。ブラジル・ポルトガル語のランバダもこのパターンだったかもしれないのですが、私も留学前だったので、どのくらいフランス全土で流行っていたかはわかりません。ポルトガル語はスペイン語をかなりのレベルで解する人は多少わかりますが、やはりスペイン語のほうが話者は多いわけで、私もたいしたレベルではないものの、スペイン旅行はスペイン語でしたし、2012年もアブラ・エスパニョール? にはウン・ポキートで応じていました。というわけで夏の音楽クリップということではサルサですね。ソースという意味もあるので、あの旅ではイタリアではっきりしたサルサはサルサ・ヴェルデでしたが。
 まつりを避けていたのに、遭遇してしまったあの三つのまつりにも運命的なものがありましたが、ストラスブール最終滞在で、たまたま市民農園でのバーベキューパーティーというのもありましたね。フランス語だとまつりはフェットというので、パーティーもフェットです。さすがにあれは居住していたときと同じ感覚でしたね。帰る先はホテルでしたが。これはメルゲズ中心にたくさん食べましたね。アラブ系だけれども酒を飲む安心なひとたちもいまして。生茄子はもちろん、煮茄子も大嫌いな私も、ギリシャ料理のムサカで茄子が食えるようになったわけですが、あのときの前菜としてあった茄子のベニエはぱくぱく食ってました。素材NGではなく料理法次第ということでは、奥深い日本料理以上に奥深いものも西洋料理にはあるということでもあります。なにしろ私はヨーロッパに行かなかったら茄子嫌いを克服できなかったわけですから。

 

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