初旅行のときにはパリのドゥマゴで食べたのですが、居住時代はほとんど初期だけ、エルタの工業製品をスーパーで買って温め直すという感じでした。エルタはドイツ語だったらヘルタになる女性の名前ですが、ベルリンでカリーヴルストを考案したひとの名前もヘルタだったということです。カレー好きの私もケチャップ臭いのが駄目なのでドイツでもフランスでもソーセージにはマスタードだけでしたね。初クロックからずっと後、いよいよフランス居住からの帰国というときに、最後の出国前の空港で、どうせ飛行機に乗れば冷たい昼食が出るのに、フランス生活最後ということで、ビールだけでなくクロックムッシュを注文して、軽食とはいえ店でちゃんと作ってもらったと言うことでは、初旅行以来のものとしての感慨があり、そこからの悲しい帰国でした。2012年は入国とも出国とも関係のない、旅の佳境ともいえるオーリヤック最後の昼に、バーのカフェめしとして食べています。ハムの質は良いものでしたね。
 フランスの場合、カフェ、ブラッスリー、バー、どれも昼から午後にかけては区別が付きません。食事はブラッスリーがレストランと同等に充実していますが、カフェとバーは基本的に軽食や、とにかく典型的な肉料理にイモをたくさん添えて、ということになります。ただ、カフェは朝食の営業がありますね。ホテルの朝食がほとんどビュッフェになってしまったので、食べ放題なだけに料金は高く、元を取ろうと思ったら昼飯が食えなくなるので、せっかくのフランスなのに、朝飯で何千円もかけてもったいないと思うのですが、じつはフランスは法律的に朝食を強要してはいけないことになっているので、直接契約なら、その何千円分を節約できます。ホテルで朝飯をとらないことにして、どうせなら食べない、食べるにしても近所のカフェで定量にすればはるかに安くて無駄もありません。そして、私のように朝食がいらなければ、昼食を充実させることができるし、夕食はコースにして劇場のように楽しむことができます。
 かつての伝統的なカフェでの、奥に注文を通すべく、アン・クロックムッシュ~と叫ぶチョッキ姿のギャルソンというのも雰囲気でしたが、居住を終えて成田に向かう前のロワシーの制限区域のセルフサービスも、ビールはすぐでしたが、クロックは並んでいるのを注文したときにはまだチーズは溶けていなくて、そこから温める仕上げがあるので、ワンオペ状態のおにいさんが持ってきてくれて、これがフランスで食べる最後のフランス料理なんだなと思ったりもしました。そのあとの飛行機はフィンランド航空だったので、言語的にもフランス語が通じなくなってしまうし、ヘルシンキで乗り換えたあとはフランス語のできるCAそのものがいません。
 店で食べた回数がそんな感じのクロックですが、そんなことを想い出しながら、2012年はあえて、あの旅での地方の宿泊地としては街の規模が小さいオーリヤックで、それまで気になっていたけれども土日を含んだ連泊なので閉まっていたバーに、とにかく典型的なカフェめしばかりがあったので、昼の一番に行ってしまいました。開店前の店主のお姐さんがテラスでくつろいでいるところなど確認してから。土地柄でしょうか、ハムがちゃんとしていて、スーパーで買う工業製品のレベルではありません。そもそもオーリヤックは地元の肉屋とチーズ屋がすごいので、そこで仕入れればいいわけですね。ホテルのレストランも、一度はスーパーのバゲットでしたが、次に食べたときは職人のバゲットで、パン屋が休みかどうかという問題だったのだと気づきました。このスーパーのバゲットと職人のバゲットの区別の仕方は居住経験があれば簡単なのですが、ここでは脱線しすぎるので語りません。
 そのあとはクロックムッシュをパリやストラスブールでもう一度食べる余裕はありませんでした。最後の飛行機をつかまえるロワシーも、ルフトハンザは第二ではなく第一空港だったので、制限区域内の店がピザ屋で、ビールだけ二杯飲んで、飛行機に乗るまでなにも食べませんでした。グラタンを食べている女性などもいましたがね。ビールという麦ごはんだけにしてしまいました。思えば、居住ではなく旅だったので、中途半端を避けていたのかもしれません。なにしろイタリアの薪焼きのピザ屋ではないし、最後にジャンクフードというのは避けました。居住帰国のときほど飢餓状態ではなかったのかとも思います。どちらも夜明け前のチェックアウトでしたが、居住帰国のときは飛行機に余裕で間に合って、2012年は乗り遅れ。前日までの状況が、居住引き払いの忙しさと、旅だからこその免税ショッピングという違い。朝の空腹というのはたしかに居住引き払いならではの現象で、朝食を食べなくて平気なはずの私も、あのときは空腹感を感じ、太宰の人間失格とはちがうのだと知りました。2012年は夕食一食になってしまった日も多いので、そこでの空腹感はありましたが、朝は食べなくて当然、昼はビールだけの日も多かっただけに、どうせ飛行機でなにか食べるものが出るのにどうしても、というのはなかったですね。結果的には、ルフトハンザのミュンヘン行きで出たクロワッサンは、隣のフランス人夫婦が、これはフランスのものじゃないからねと念押ししていた解凍に失敗したクロワッサンで、そうだとわかっていたらなにか食べておけばと思ったりしますが、予測はできませんでした。乗り継ぎ時間はあったのに、飛行機から降ろしてもらうのに三十分以上かかり、買い物がやっとで、ビールも飲めませんでした。ミュンヘンからの成田行きはグーラーシュだったので、ヨーロッパ堪能の旅の最後としても適切でした。フランス料理ではないですが、オーストリア・ハンガリー帝国の料理ですから、現在は中欧に分類されますが、西欧料理を食べたという感じでした。
 時系列を逆行して旅の最初を振り返ると、2012年はロワシーのシャルル・ド・ゴール空港の第2第二ターミナルに、第一ターミナル到着後のホテル村宿泊翌日に行ってみたのですが、出国後の制限区域の様子はわかりません。中の免税店がどうなっているかとか確認できていません。ただ、非制限区域のレストランがセルフサービスだけになっていたので、空港ホテルのレストランに行かなければまともなフランス料理を食べる可能性がなく、それを知っての、旅の最後のもっと乏しい第一ターミナルです。第一ターミナルはできた当初は未来を見据えた構造になっていて、その長いエスカレーターで辻仁成がミポリンを見初めて結婚して、のちに離婚して、超法規的措置で居住している彼のほうだけパリに残り、息子はさすがにパリで育っているので、離婚と同時に滞在資格を失う母ではなく父の側についたわけですが、その革命的だった空港も老朽化して建て直しとなりますね。エールフランスが第二ターミナルを使っていて、そもそも最初はエールフランス専用だったのが、建物が増えてほかの航空会社も就航するようになったので、いずれにしてもフランス的な空港として力を入れたのが第二であり、第一は国際的、つまりそんなにフランス的ではないということになります。次の旅があるとすればエールフランスで行こうと私が思うのも、機内食の安心とともに、帰りがやっぱり機能的なはずだからというのがあります。もちろん11年前とは状況が違いますが。
 とにかくフランス料理はパリだけではなく、地方料理の集積であるということで、パリ以外の地方を旅するのが常でした。しかしもし、今後もフランスに行く機会があって、プライベートな旅行でも一週間以内なら、パリだけで沈没すると思います。期間が短すぎます。ノルマンディー旅行の中で一度行ったことのあるモンサンミシェルに今更一日つぶして往復しようとも思いません。じっくりノルマンディーならちょっと行ってもいいですが。だから、逆にパリのカフェで有名なものが、地方のバーで、というのも有り難かったのです。オーリヤックでは、観光案内所で地図をもらうとき、四泊だけれども市内に留まってどっぷりという私を受付嬢は信じてくれませんでした。しかし、週末もはさんでいたけれども、夕食はホテルのレストランと、なんとか見つけた店でカンタル料理を食べ、昼はもう少し地方性に欠けても簡単なもの、という感じで食べていました。
 これでいい、と思ったためか、あの旅ではもうふたたびクロックを食べることはありませんでした。ブログをやっているからには、どこかのカフェで、ハムとチーズだけでなく目玉焼きものせているうえに高級になるクロックマダムもと考えましたが、やらないままで終わりました。初旅行も留学に伴う居住もあったのに、じつはクロックマダムは一度も食べたことがありません。玉子が好きかどうかと言うと、状態によって微妙なのです。いまでもゆで太郎で温玉クーポンがないと固茹でも生玉子も嫌いなので玉子を注文しませんが、そんなわけで半熟でなければ絶対に金を払いたくないわけですね。これは007から受け継いだものかもしれません。とにかくナチュール、つまりプレーンのものが中心で、あまりゴチャゴチャさせなかったあの旅の食事です。
 結局、かつての居住帰国のときには、フランス最後の食べ物としてクロックムッシュを食べましたが、人生最後の旅になるかもしれないとおもっていた2012年は、旅の半ばで食べてしまってからは、もう食べていないし、久しぶりだったジャンボンブールはもっと食べていますが、そのすぐあとのポーで終わりなんですね。初パリの思い出の軽食だけでなく、もっとフランス居住経験や、あの旅で新たに知ったものなど、再体験したかったことがパリ最終滞在で多かったということでもあります。
 2012年の旅では、典型的なカフェめしとして、結構日本で食べるのが難しい、ジャンボンブール、アシ・パルマンチエ、を旅の前半で食べたことになります。ジャンボンブールくらい日本でも作ることができるだろうと思う人は、このブログのジャンボンブールの記事を読んでほしいですが、ロースハムでは駄目なのです。本物のハムは腿肉だからです。クロックムッシュも日本のフランス風カフェ(シアトル風ではありません)にはあると思いますが、やはりハムがね、と思ってしまいます。その本物を確かめてからは、旅の後半ではあえてふたたび食べることもなくなってしまいました。日数をとったあの旅ながら、ストラスブールやパリ最終滞在でもう一度食べたかったのは、昼はエスニックだったり、前半ほどの倹約姿勢でもなくなっていました。夕食ともなると、軽食ではなく、しっかりしたものをもう一度、という感じで、旅の前半にも食べていたものを、同じチェーンで食べ直したりしていました。また、あのオーヴェルニュに行った旅だからこそ何度も食べたソシス・アリゴも食べずにパリを去ることもできませんでした。実際に死ぬ直前にコースなんか食べることはできないわけですが、最後の晩餐のメインとして渇望してしまうのはソシス・アリゴで、へんな創作料理ではありません。それだけに安心できる定番がいいわけです。面白いことに、あの旅でパリのカフェの定番のように思われるクロックムッシュを食べたのはオーリヤックであり、そここそソシス・アリゴの本場でした。しかし、意外と本場でこそ、レストランでソシス・アリゴを探すのが難しかったのです。店にとってはトリュファードのほうが楽のようで。またあの坂道のクレルモン=フェランに行く日が来ることは、あの元気だった11年前のようにはないと思うし、オーリヤックは中心街だけ盆地のすり鉢の底で平らでしたが、交通的にはピレネーよりも奥地になってしまうので、再訪を考えることができません。そういうところで、パリ、というよりもフランス全土の定番であるクロックムッシュを今のところ人生最後に食べた、というのも、かつての居住帰国のときのクロックが、初めてのときの典型的なパリではなく、出国直前の空港だったことと同様、自分の中では面白いですね。外国人扱いされていない感じのフランス語のやりとりも快適でした。パリだとモンパルナスでも、私が店に入ると、チェーン店のウエイトレス達は、けっこう頭に英語をインストールして構える感じがあって、そのあとフランス語で話せば緊張感はなくなりますが、最初の段階で緊張させてしまって申し訳ない気持ちにもなります。オーリヤックで英語で話してきた係は惣菜屋のイートインがもう閉店だったときの店員一人だけだったので、あとは、日本人などめったに来なくて、宿泊者もそれまでのブログでは存在しなかっただけに、フランス人と同様の滞在、あるいは周辺国に関しては探究心ゆえにそれ以上かもしれないといいうことで、そのあとイタリア語圏、ドイツ語圏でもそうですが、現地語だけで通すことは虚栄心とはとても言えない実利と快感がありました。まったく性欲の旅ではなく食欲の旅でしたが、そっちだけ快感の旅でした。すると、オーリヤックの駅前にあったレストランの名前が、ギリシャ哲学の快楽主義のエピクロスの学派であるエピキュリアンでした。中心街に数日閉じこもっていたので、そのレストランで食べては居ませんが、あの旅はその後も、現地語旅行だからこそのものになります。ちなみにエピクロス派の快楽主義とは、心の平静のことなので、中庸のようなものであり、放蕩とは逆だったりするのですね。何千年かの間に言葉の意味が変化しています。享楽主義はヘドニズムのほうが近いと思いますが、これもギリシャ時代からの意味の変化は大きく、私ごときの語源探求ではなんとも言えません。現代ではヘドニズムのほうが性的な快楽を含んでいるので、食欲の旅とはいえ、まったく風俗店には行かなかったからにはエピキュリアンですかね。犬儒学派のごとく、犬のように野垂れ死ぬことも考えた旅でしたが、せっかく何人もの友達と再会できたのに、失望させてはいけないと思い直しました。もし、友達と一人も再会できなかったら、どうなっていたかわかりませんが。
 ちなみに、アフィリエイトで純粋な腿ハムをいうことで、調べたところ、なんと生ハム以外は見つからなかったのですよ。日本にいれば何でも手に入ると言われていたのに。食パンは薄いものを焼けば、たぶん日本のほうが添加物は多いですが似たような固さになり、ハムをロースハムや生ハムで代用すると、あとは溶けるチーズですね。千切り状態のものをパンに載せて天火焼きにするので、塩分をと考えるとグリュイエール、塩分おさえめとなるとエマンタールですかね。たぶんオーリヤックで食べたクロックに使われていたのはカンタルだと想像しますが。
 そうこうしているうちに訃報です。ジェーン・バーキンが七十六歳で亡くなりました。私が留学したとき、セルジュ・ゲーンズブールはもう亡くなっていましたが、ジェーンはずっと元気にテレビにも出ていたので、それからの年月を感じます。昔はフランス人はジェーン・ビルキンと発音していたものでしたが、フランス人も英語のできる人が増えたので、だいたいジェーン・ブゥワーキンという感じになっていましたね。フランスではきっとテレビで追悼特集をやっていて、ジェーンの出た映画がたくさん放送されていると思うと、その時期に身を浸したかったと思うことしきりですが、遠い東京からの追悼です。日本でジェーンの映画を見ると、新しく輸入したものでないとボカシだらけになってしまうことも多いのが、日本の悲しさでもあります。表現の自由のレベルが先進国とは言えないことが、芸術表現者の可能性を狭め、じつは女性解放を妨げていたことが、ほとんど語られることなく、庶民の側に立っていたと思われた政党が、グラビア撮影を禁止しろとか、かつてミスコンを中止しろと言っていた議席を持たずに終わった政党のようなとこを、議席があることをいいことに自治体に押しつけていたりします。そんな連中にはセルジュとジェーンは永久に理解されないことでしょう。偉大なジェーンはクロック・マダムならぬマダム・クロカントかなあとか思ったりします。英国産チーズが雰囲気ですかね。またいろいろなことに思いを馳せてしまいました。広告は偽物に釣られてほしくないので、Birkinでヒットしたものにし、Berkinとなっているものは排除しました。

【HIS】旅行プログラム