2012年の旅についての私のブログは、ヤホー時代から、自力で探さないと見つからないようにレストランの名前や正確な場所をほかしていましたが、あまりにも有名なので名前を出してしまったところが、ブイヨン・シャルチエとルレ・ド・ラントルコートです。実際に日本人と相席になったり、隣になったりしたので、自分だけの宝にはしようもなかったのです。どちらも20世紀はじめか19世紀終わりというベルエポックの店構えです。はじめてのパリ、久しぶりのパリ、人生最後かもしれないパリ、どの訪問であるにしても、こういう店に一度も行かないのでは意味がありません。セルフサービスやマクド(フランス人はマックと言わず、関西人風にマクドと言います。マクダーナルなんて言っても通じなく、ただきちんとマクドルナルズと言えば通じます。英国の英語を意識しないといけないのです)中毒の人はどれだけ日数に余裕があるのですかね。で、最近ですが、ブイヨン・シャルチエが支店を出し、それがよりにもよって、東駅前とモンパルナスという、あの旅での私のパリでのいつも帰るところというか、ほぼアイデンティティの一部になってしまった区域です。むしろモンマルトルは初訪問以来、あまりにも観光的なので避けていて、ブログで発信する旅なのだから、あえて宿も取ってみようという感じでした。それがまさかの、飛行機で到着直後のロワシーのホテルでのほぼ徹夜検索で、ちょうど会員になったホテルチェーンで御の字の料金で見つかったのです。その徹夜で生じた目の障害は今も続いていますが、とにかくモンマルトルに宿を取るのは初旅行の時以来です。しかも、あのときよりももろにモンマルトルです。丘の頂上ではなく、大通り沿いですが、観光客狙いの人々がいろいろいるので、サクレ・クール寺院まで登り切ることは無く、モンマルトルの丘、というか山の中腹と麓、あとは観光名所は側方通過で写真を、という感じでしたが、あのときの最初のモンマルトルは宿を取っただけに食事もしています。最初の食事はカフェでのジャンボンブールですが、モンマルトルをかなり下っていて、ネクタイをしたギャルソンが担当するテーブルだけで迎える昔ながらのカフェというよりは、オーナーがTシャツで直接サービスする店で食べました。上沼さんがシャンゼリゼのカフェで通りかかった係が何もしてくれなかったと批判していましたが、クラッシックなカフェでは、ほかのギャルソンの担当のテーブルの注文を盗んではいけないのです。モンマルトルではなくモンパルナスのカフェでは、すでに入ったことのあるカフェで適当に座ったら、その席の担当のギャルソンがなかなか来てくれないので、その数日前に担当してくれた人が、こっちに来いよ、で移動してビールにありつきました。そういうものなのです。レストランにしても、そこまでの個人事業主の割り当てでなくてアルバイトでも、いちおう係の席の割り当てはあり、デザート当たりで別のひとが出てくる、というパターンでしたかね。留学直後に一年間通ったレストランでは、私はシルヴィーの客として、入店のときのマネージャーが新人で無ければ、シルヴィー担当の席に案内されましたね。いや、それが嬉しかったのですけれども。でもなにか期待できるわけでもなく一年となり、ようやく学生仲間もでき、さらにご近所の友達もできたので、ブロンド長身ウエイトレスの元を去りました。もちろんウエイトレスたちとは握手以外には触れませんでしたが。そのチェーンはストラスブール支店はそれっきりでしたが、パリに行くたびに行き、2012年は
、それがけっこうなことになります。そんな初旅行と、その後のモンパルナスの記憶に、初旅行以来のモンマルトルの記憶がのっかってきました。モンモンとしますねえ。ジョノカーができることなく、客としてウエイトレスとやりとりするだけという傾向は日本に帰ってからも続いています。ややこしい客ではないから歓迎してもらえるというだけのことでしょうが、それは現地の食文化を理解した上での注文というのがあると思います。でも、店に無茶振りをしないからこそ、店の安定した味を享受することができるのです。日本国内でも、地方差を理解しないと、東京で蕎麦屋でうどんを頼んで、まずい、と嘆く関西人のようになってしまうわけですが、フランスやイタリアで、日本のフランス料理やイタリア料理が一番という人間も、これと同じです。これを如実に観察できるのが、パリの安くて典型的で、地元の人も観光客も相席になるような店でしょうか。私もこういうのが得意かと言われれば、お一人様のほうが好きなのですが、安い店では、ドイツのビール酒場はもちろん、フランスでもイタリアでも知らないオッサンと向かいになってという経験はあります。2012年のシャルチエではオッサンではなく、最初は日本人女性、そのひとが去ると、次は別のアジア人女性、と相席になりましたが、最初は日本人女性と同時に案内されてしまったので、係には、われわれが一緒では無いことを、向こうは無理なので私がフランス語で説明し、それぞれ食べ始めましたが、やはりペースを合わせてしまうので、彼女が水だけで食べているので、しはぱらくて私は耐えられなくなって、葡萄酒を注文しました。係は、そうでしょう! という感じで赤のハーフを持ってきてくれましたが、現在はシャルチエのオリジナルがあるようです。これがフランス料理の食べ方だなとしみじみと感じて、彼女のほうは果たして美味いと思っているのだろうかと思ってしまうわけですが、飛行機の時間が近いということで、デザートを私に譲って去って行くしことになりましたが、係はけっこうきちんと理解していて、デザートを会計に付けず、出さず、という具合でした。彼女もかなりきちんとした服装で、それでいて中東系の飛行機だということなので、六時間とも八時間とも言われる乗り継ぎ待ち時間に、上着までドロドロになって成田に到着してしまうのでは無いかと想像してしまいました。あとで私が帰国時に飛行機に乗り遅れたことを考えると、果たしてそんなにぎりぎりまでパリにいて、飛行機に間に合ったのだろうかという疑問もあります。車は渋滞、電車は治安が悪い。現在、空港のレストランはたいしたことがないものになっていますが、空港ホテルのほうにはちゃんとしたフランス料理のレストランがあるので、そちらで食べたほうが安全ですね。私のほうは、あの旅では飛行機は東京・パリ直行では無かったけれども、ヨーロッパ乗り継ぎだったので、飛行機以外の移動は一日四時間が最高という具合でした。なにしろフランスもイタリアも高速鉄道が発達していたし、一番往復したパリ・ストラスブールは、現在でも世界最速の区間です。スーツでドゥバイやドーハで八時間の乗り継ぎ待ちなんて、私には考えられないわけですが、飛行機でも楽な格好では無くてきちんとしていなければならないという人もいるようです。成田か羽田から職場に直行なのでしょうかね。仕事中に眠ってしまいそうですが。それともファーストクラスで飛行機の中でも仕事なのでしょうか。航空券の安い中東系で。ファーストクラスならラウンジで八時間過ごせるのかもしれませんね。


 2012年の旅の最初の、成田からの、人生たった三回目ではありますが、陽の沈まないシベリア航路への想いは、アホな戦争でロシア上空を通ることができなくなったことですでに過去のもののように懐かしんでいます。かつて、やっとあの航路が解放された頃、そしてその後の当たり前だった時代。小学生の頃から、学校の地図帳で行くかどうかもわからないところを中学校用、高校用と、ユーラシア大陸を眺めていたわけですが、昔は中国の長編映画というものが無かったので、ハリウッド映画以外の外国映画といったらほぼヨーロッパ映画でしたから、地図帳では、パリ、ロンドン、ローマ、ミラノ、ベルリン、と目に入ってきて、そこに行くまでに広大なシベリアの地形を見ていたのが、飛行機に乗っていると、渡航時に地図帳は持っていませんが、初旅行と留学のときは機内誌があったのでヴォルガ河が地図通りに見えたり、2012年は座席のモニターに進行状況が表示されたので、ノヴォシビルスク上空とか、わかりました。セルゲイ・ブブカの出身地ですね。そのブブカに憧れて後に女子の棒高跳び女王であり続けた美女のイシンバエヴァも、シベリア出身で、まさにヴォルゴグラードなのでヴォルガ河沿いです。毎回、ほとんど大地ばかりで街が見えないのですが、街のことを考えながらヨーロッパに辿り着き、夜をすぐに迎えて次の朝の行動。2012年は嵐のために深夜の到着となり、ロワシーのホテルだったので、翌朝のパリ入りがそれまで避けていたモンマルトル宿泊。その滞在中にシャルチエに行くことは決定的でした。
 ブイヨン・シャルチエはどの国のガイドブックにもありそうですが、なにぶん私はかつてフランスを引き払うとき、ストラスブールで日本語を教えていた高校のドイツ語教師の女性が、母としてなのか恋愛対象としてなのか微妙な感じの友情で、なぜかドイツ語は片言だけれども解する、やはり語学教師の私に非常に親切にしてくれ、フランス生活を引き払う帰国前に電話で、どうせパリから帰国するならブイヨン・シャルチエを薦めるよ、ということでした。で、彼女はかつてパリで学生をしていたときにモンマルトルの住人だったのです。戦争の終わりが遅ければドイツ人になってしまうことも考えて、ドイツ名も考えられていたくらいでしたが、学位はドイツについてでは無く、オーストリアのシュテファン・ツヴァイクについての論文だったということで、カトリック女学生として育っていて,2012年にあの風俗店の多い猥雑な界隈に宿を取ったところで電話したら、感じのいいところでしょう~ということで。これが西欧の感覚だということになります。田舎では無いことの条件が、猥雑であること、これに尽きます。よく、どこどこは都会ですか、田舎ですかというくだらない質問がネットにはありますが、都会なんていう言葉を使う人が田舎者なのではないでしょうかね。猥雑な界隈を持たない自治体が田舎です。で、そのひとと再会するにあたって、さすがにシャルチエに行かないわけにもいかないモンマルトル宿泊中に、行きました。それで最初のストラスブール再訪で迎えてくれたそのアルザスの母に、ついにシャルチエで食べたことを伝えることができました。日本のフランス料理店の、本場とちがうあり方でフランス料理のイメージが固まってしまった人がパリに旅してシャルチエに行って、それとちがうのでまずいとか言う人がネット上にもあるのですが、おそらくフランス語ではないでしょうから英語で何を注文したのでしょうかね。そして何を飲んだのか。イタリアでもないのに、子供用に用意されているミートソースのスパゲッティでも食べたのではないでしょうか。ボロニェーズではなく、ボロネーゼとでも発音して。イタリア語ならボロニェーゼです。すでに英米人向け調理決定的です。また、日本のフランス料理店と比べてけなしていくものの、フランスの他の店と比べた形跡も無く、フランスで何を注文すべきかわからずに、日本でやっているように食べただけなのでしょうね。シャルチエで相席した日本人女性も、水だけで食べていたわけで、下戸なのでしょうか、ほんとうのフランス料理の食べ方をしていませんでした。正直なところ、日本のフランス料理店ではほぼ食べない、かつての居住の経験での感覚では、望むとおりのものが私にとっては安い値段で出てきました。おそらく英語で日本のフランス料理店のような魚料理を注文したか、ガキ用のスパゲッティを注文したひとの感覚と、居住経験があるから、素直に日本では稀な仔牛料理を堪能した私のどちらが正しいのでしょうかね。そんなこともヤホー時代から問うてきました。東京23区内に住んでいますが、地元のスーパーに仔牛などありません。これだけでも日本でフランス、イタリア、ドイツ、スイスの料理を再現するのは難しいのです。わざわざ旅して、日本のほうが豊かな魚料理というのもね。専門店のラ・クリエに行けばよいのに。現在は流通が良くなっているので、内陸のパリもストラスブールも寿司屋が日本人経営で無くてもたくさんありますが、もともとはそうではないので、フランス料理の基本は肉料理です。日本で魚料理ばかりのフランス料理店をやっているシェフは、本場修業そのものは足りないのです。これはイタリア料理もスペイン料理も同様です。まして海に接していない国のものともなるとね。魚なら、フランスではクリエ、ドイツならノルトぜーです。あとは星付きの店。そうではないのにヨーロッパの魚料理がどうのこうのと言うこと自体がくだらない。かに道楽に、グループで来た人の中でかにが苦手な人のためにステーキがあるのと同じことです。これを理解できていなくて、肉食のヨーロッパで魚を注文する人が多いのは、日本の西洋料理店の罪なのかなとも思います。
 最近になって、ネットでシャルチエの写真が支店のほうも出てきたのですが、モンパルナス支店の写真を見ていたら、見憶えがあります。モンパルナスであれほど気違い時代ともいわれるベルエポックの建物ということで、やはりあの店を居抜きしたかと思い、住所を見ると、旧い日記を見たら、一致しました。もう存在しないので名前を公開しますと、ビストロ・ド・ラ・ガールです。駅ビストロというわけですが、モンパルナス店はモンパルナス駅に近くて駅前とも言えるものの、ほかの支店は駅とは関係なくて、ストラスブール支店は中心街にありました。パリでは、向こうにとっては何年かごとの訪問ですから、私が憶えられることはなかったわけですが、かつて存在したストラスブール支店では、すでに書いたようにシルヴィーの常連でした。2012年はチェーンそのものが無くなっていたので、ストラスブール支店は、隣だった同じ系列に一時はあったカルパッチョ食べ放題レストランであるビストロ・ロマンがそこに移転し、移転元はおもちゃ屋さんになっていました。いや、大人のじゃなくて。大人のはモンマルトルにいっぱいあります。あの旅ではそういう店もたくさん通りかかりましたね。中には入りませんでしたが。東京の下町にはほとんどないですね。ドン・キホーテにはそれらしきのれんがありますが、くぐったことはありません。どうせ完全に見えるわけではないし。話をカルパッチョ・レストランに戻しましょう。
 ビストロ・ド・ラ・ガールは、初めての海外旅行で、パリを締めくくるにあたって、二人三脚だった友人が先に日本に戻ってからの自分一人でのレストラン探しは、エッフェル塔の麓のシネマテックで小津映画がフランス人にどう見られているか見たあと、夜遅くなってしまってからのモンパルナスでだったと記憶しています。外の品書を見ながら自分で選んだレストランが、なんだかウエイトレスが美女ばかりで、それで売りにしているレストランなのだと思いました。そこでのやりとりで自分のフランス語で不足した部分をまたのちに勉強し直して活かすというのがありましたね。肉の焼き加減の表現ができなかったのです。だから、のちに留学するときは、そんなのできないようでは駄目、という前提になりました。ウエイトレスの情熱的なまなざしは心配ゆえのまなざしにすぎないのでしょうが、初旅行で印象に残った美女の一人ですね。とはいえ、初めての海外旅行だったので、美女の顔はものすごくたくさん記憶していますが。想定していた初旅行最終日にも行き、別のもっとクールなウエイトレスだったので、食事は淡々と進みましたが、周囲を見るとなにやら巨大な容器に茶色の物体が入っているので、巨大ムース・オ・ショコラを頼んでみると、それが来ました。横のオランダ人夫婦も、オ~! ムース・オ・ショコラ! と喜んでいます。小さな容器に少しずつすくって、食べられないぶんは取らずに容器を戻す方式なのですが、クールなウエイトレスは、全部食べるのよ! と言うので、先日のウエイトレスに比べて優しくねえなあ~と思いながらできるだけ減らしてみて、半分は無理ですが、三分の一くらいいったところで、もうたくさんと言うと、まあまあね、というわけで、なんだかフランス語でのやりとりが、友人と二人三脚ではなく、一人旅に転じてから楽しくなってしまって、コース料理は劇場だと感じるようになりました。別に食事の相手が日本人でもいいのですが、サービス係、周囲のお客さんを巻き込んでのやりとりというのもできるようになるわけで、レストランを出たあとも、映画館を出たあとのような感じですね。よく昔のヤクザ映画を見たあとは足取りが高倉健になるということをよく聞きましたが、私の時代だと高倉健は真面目な人の役ばかりになっていたので、フランス映画を見たあとにアランドロニゼされたほうが多いかもしれません。
 それが忘れならなくて、ストラスブールに留学してみると、そのビストロの支店があり、ベルエポックの雰囲気です。留学生とはいえ、到着当初のホテル住まいでは、日本との連絡のために、空港でタクシーの運転手にいえばすぐわかる高いランクのホテルで、下宿先が見つかるまで過ごしていました。半分観光客なので、大聖堂前のアルザス料理店を日によって夕食には食べ歩きますが、とにかく朝食は食べないのでその料金がフランスでは取られなくてすむし、昼はポムドパン、クイック、マクドナルドのいずれかで、夕食にお金をかけるのも、よく眠るためにはよいことを学びました。食事で弱い酒を飲んでいれば、ナイトキャップも強い酒である必要が無いのです。こっちのほうが健康的な証拠に、のちに学食通いで酒もなくてコカコーラ、なんてのをやると穏やかな睡眠にはなりませんでした。医学部に近い学食はグラスだけですが、葡萄酒がありましたが。学食で水かスプライトしか飲んでいないのですから、帰宅後に気の済むまで飲むことになります。とにかくそれほどわかりやすい場所にはない学食よりも前に、アルザス料理店だけでなく、すぐにビストロ・ド・ラ・ガールのストラスブール支店を見つけます。カルパッチョ食べ放題レストランになっていましたが、美女レストランの側面は変わりません。通いました。シルヴィーが私の担当みたいになったので、いろいろ妄想しましたが、やはり街で男と待ち合わせしていたのを見たので、常連をやめて、パリ再訪のときにモンパルナスで同じような脚長美女に見とれながらカルパッチョを食べていたわけですが、ストラスブールであのウエイトレスの顔をも曇らせた八皿の記録が最高です。当時のニュースでは、ドイツ人の三十二皿がフランスのカルパッチョ食べ放題での最高記録でしたが、八皿というのも若さ故ですね。なにしろ前菜もチーズも食べましたから。2012年はパリでビストロ・ロマンで二回食べましたが、お替わりは四回です。付け合わせはイモかパスタ以外にいんげんを選ぶことができたので、現地での自炊時代に原価を知っていることと、健康面、なんなら食べる順ダイエットを考えて、とにかく選べるときはいんげんでした。前菜を頼まず、いんげんを前菜がわりにすればいいわけですね。イモは他を選べないときに堪能すればよい。どうせあの長さの旅では、イモと小麦の消費量は多いわけで、その半分近くを緑黄色野菜にできるなら、それはそれで素晴らしいことです。この選択肢、現地語が読めれば存在に気づくのです。セルフサービスのレストランには野菜取り放題もありますが、それだけに、普通は料理にちゃんとシェフが味付けする西欧でも、日本の取り放題のものをしょっぱくしたり油っぽくする大昔の某ピザチェーンのランチのようなことはしないので、それだけ味付けがないのです。もちろん現在の某ピザチェーンはそんな姑息なことはしていないでしょう。今はそうでないだろうからチェーンの名前を明かしてもいいのですが、あまりにも昔なので、私もそれがピザ・ハットだったのかシェーキーズだったのか忘れてしまいました。いまは食べ放題というだけで行きたくないので、有名ホテルの朝食ビュッフェと聞いても、ちゃんとした料理人が朝からじゃなく、昼と夜に全力を尽くさんかい! と思う部分もあります。博多大吉さんが言っていましたが、寝ぼけた自分が、修行もしたシェフに目の前で適当にそのときの気分で選んだだけのものをよそってもらうのが申し訳ない、という気持ちは私も強くあります。
 2012年、パリ到着はセーヌ河右岸に留まって、モンパルナスに行きたい想いを抑えていましたが、かつてモンパルナスの駅前に行くと、ローラースケートの美人がチラシを渡してくれていたビストロ・ド・ラ・ガールに、やはり行きたかったので、フランス東部、グランテストから最初に戻ってのパリ郊外滞在で、ようやくという感じでモンパルナスに行きました。店はモンパルナス1900と名前を変えていていました。もうかつての、カルパッチョ食べ放題だったビストロ・ド・ラ・ガールはなくなっていて、桃割れで脚を強調した感じの美人レストランではなく、迎えてくれたのも訛りはあってもフランス人と変わらないフランス語を話すイタリア人ウェイターでした。コースはいろいろ込みなので、けっきょくそこそこ庶民的な値段でしたが、とにかくその店舗に再訪できたことはそこそこな感慨がありました。かつてはもっと奥の天井の高い広いホールで食べていたのですが、そのときは前室のアペリティフのキールを飲んでいたバーのところが食事の席という具合で、そのときは奥をほぼ見ていないのですが、前室の構造はたっぷりということで、それで、そこが現在のシャルチエの支店の写真に似ているので、シャルチエになっていると思いました。そしてすでに述べたように番地で検証されました。
 東駅店のほうも調べてみたら、べつに2012年の東駅の中のブラッスリー・フローにとってかわったわけではなく、向かいのホテルに大々的にという具合のようです。東駅の向かいというと、かつてアルザス料理店があり、白ワサビある? お待ちください~ ありまさん~というやりとりをしながら本場との味比べのためにシュークルートを食べたことがありますが、そこがシュークルートも出すシャルチエになったのかは、とにかく行って確かめることができません。駅前通りの果てだったので、駅前ではないのでちがうと思いますが。シャルチエでビール、というのがイメージに無かったので、ブラッスリーを兼ねたシャルチエというのもベルエポックの店構えにはいいかなとも思います。
 2012年のモンパルナス1900でカード払いしたら、レシートの店の名前はビストロ・ド・ラ・ガールでした。同一のオーナーが時代の流れか美人レストランをやめてしまって、もっと時給を安くできるようにしたという感じで、二メートルあるかもしれない支配人は従業員にすごく厳しくしていました。ミラノ風カツレツの話で、それほどのレベルでもない食堂でダメダメ君が邪険に扱われていることを書きましたが、自分もシノギの仕事では有能かどうかわからないので、身につまされますね。2012年はフランスの飲食店も美人で儲けようとしていないのが、じつは悲しくもありました。それは顕在のグリルチェーンも、昔は脚の露出は少ないロングだけれども、逆に胸元は気になる感じだったので、それがなくなって男のウェイターのほうが多くなってしまったのが、寂しくもありましたが。とにかくベルエポックな店内だっただけに、ビストロ・ド・ラ・ガールはシャルチエになったということで、かぎられた人用ではなく、食事をすれば誰でも行くことができる状態、しかもたぶん前よりもさらに安く、ということで考えると、ビストロ・ド・ラ・ガールの消失は悲しいですが、救われた感じはあります。
 ビストロ・ド・ラ・ガールには、ばかデカい胡椒挽きが昔はありましたがもうないし、ヌートバーがヌードバーになることもありません。ちなみにペッパーミルはフランス語ではムラン・ド・ポワーヴル(前置詞はドのかわりにアやプールにもなりえます)となります。フランス語のアクセントは最終母音にきて若干長くなりますが、ムランは最終母音が鼻母音なので、ムーランでもいいでしょう。ボジョレーが絶対にボージョレにはならのと同様、ボテもボテーならよくてもボーテにはなりません、美容業の皆様。そしてあのデカいムース・オ・ショコラもなくなり、そのぶんの見世物としての楽しさは無くなりましたが、味ということで考えれば、ムランは小さくてもいいし、ムースも適量でいい。初旅行の若い頃のように大ジェットの三分の一も食べることなんてできませんから。羊羹やういろうを一本丸ごと食べるときのことを考えていただければ、少量のときとちがって、大量だと飽きます。
 モンマルトルのシャルチエで見た、外国人観光客に相席したフランス人が食べ方を教える微笑ましいパターンもありましたか。私だとすごく長い話になって、どっちが酒をおごるか、安い店で食べたはずがどうしよう、と、目的あっての倹約か、せこいのかわからなくなってしまいそうですか、モンパルナスで日本に帰る前の滞在なら太っ腹になってしまうかな。夏は冬よりも痩せ気味の私ですが。でも、相席がヨーロッパ人ならフランス語ができる可能性が強いし、日本人なら日本語で話せばいいのですが、ほかのアジア人だとだいたい英語しかできないので、私としてはあの旅でのメイン三言語に比べて、話は盛り上がらないでしょうね。面倒です。英語圏に旅したことがないので、ヨーロッパでも日本でも、英語に対応するのは自分のためでは無く相手のためであって、スムーズでなくて当然だと、現地語で頑張ってきた自分としては思います。どっちのせいでどっちが困っているのか考えると、現地の人のせいではないわけで、それは日本でも同様です。
 さて、もっと書いていたのですが、編集しようと思っていたら、この十一年前にシャルチエに行った時期に現在のシノギの仕事の休みが少なくなってしまったり、先月も今月も、会社の健診のあとの呼び出しや検査などありまして、医者いらずだったからこそかつて留学し、十一年前の旅もしていたのが一変、月に数回ですが休日を潰して病院に通ったので、このくらいにしておきます。推敲が甘くて誤字脱字、繰り返しがあったらご勘弁を。校閲者のいない素人のブログです。金をもらって書いている炬燵ジャーナリストも誤変換が多いので、最近は安心してしまっていますが。肝心のアップロード前日にもエディターソフトが変な風になってしまいまして、時間が無くなってしまいました。

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