セブンティーンアイス#11
「せっかくここまで来たんだから、もう少し頑張ってみないか」
「そうよ。なにも今でなくても」
逸材くんはコーチと彼の母親と話し合っている、というか説得されているようだった。
「ぼくはディジリドゥを吹きたい。それに、それにぼくには水泳の才能がない」
逸材くんは絞り出すようにそう言って、膝に乗せた拳に目を落とした。背中がわなわなと震えた。
おい、なに言ってんだ。お前には才能があるよ。私はそう言いたかった。セブンティーンアイスを握りしめたまま、その場に立ち尽くした。
「なに言ってんだ。なんでお前、才能がないなんてわかるんだ。やってみないとわからないじゃないか」
「わかるんです」
彼は顔を上げ、毅然として言い放った。
コーチも母親も、たじろいだ。
「なぜ」
かすれた声で、囁くようにコーチが尋ねた。
「わかるんです」
彼もまた、囁くように言った。
室内のざわめきが大きく聞こえた。
私はどろどろに溶けかかった、先日娘が悩んでやめたセブンティーンアイス・ブルーベリーチーズケーキを舐めとりながら、コーチと逸材くん不在の練習を眺めた。
綺麗に舐め終わって、しばらく白いプラスチックの棒を未練がましく噛み噛みしてみた。味はしなかった。
アイスの棒を噛みちぎる前に、私は備え付けのゴミ箱に放り込み、ゆっくりと家路についた。
セブンティーンアイス#10
息継ぎを習う子、ドルフィンキックの姿勢を矯正される子、泳ぎこみをするコース。プールを眺めていると様々な想いが溢れ出て、どうにも落ち着かなくなり、セブンティーンアイスかブリックパックを買いに行った。
フロントの脇を通るさと、逸材くんが母親に付き添われて何かをコーチと話し込んでいた。
私は惚れ惚れと彼のヴィジョンを堪能した。立ち上るオーラが私を圧倒し、一流の素質と気高い精神が私を奮い立たせた。間違いない。間違いないのだ。社会人になると、視えなくなる人がいるのだ。そうに違いない。
私はゆっくりと逸材くんの脇を通り、彼の放つオーラを吸収した。イライラとした気分はおさまり、満ち足りた気分とやる気に溢れた。
セブンティーンアイス#9
様々な感情が渦巻きながら、システム三部の須藤ちゃん、高橋、金井、亀井、木田と言った『元スイマー』を視るために、しばらく社内を彷徨った。
彼らは私になんの感銘も引き起こさなかった。
依然としてジェンガの塔は崩れたままであった。
もはや業務は手につかず、同僚にもごもごと言い訳をして早々に帰宅した。
なんとなくふらふらとスイミングスクールに足が向かった。
しばらくぼんやりとプールを眺めた。
徐々に怒りが込み上げてきた。恋い焦がれた女性を、不当に「あいつはヤリマンだ」と侮辱された気分だった。マネージャーは間接的に逸材くんの才能はない、と言ったのだ。私は奥歯をギリギリと噛み締め、指の関節が痛むほど握りしめた。
セブンティーンアイス#8
私は結局、しばらく温め続けていたR&D企画について、ふわふわした気分で語った。ふわふわしながらも、温めてあった企画だったので、ぶっつけながらも理路整然とポイントを伝えることができた、と思う。
「ふーん、着眼点は面白いね。詰めが甘いけど。そのR&Dが実際のビジネスにどう応用できるか、例えを挙げてさ、簡単にペーパーにまとめてよ。あと、概算でそれにかかるカネを見積もる。それからだな」
私はふぅっと息を吐いた。
席を立って会議室を出るとき、マネージャーはばんっと私の肩を叩いた。
「最近元気なさそうだったから、そっち系の相談かと思ったよ。ハッハッハ」
セブンティーンアイス#7
「おう、どうした?」
会議室に入り、椅子に座るとマネージャーは聞いた。
マネージャーはタフな面構えの中肉中背の四十がらみの男性で、パリッと体に合ったスーツをいつも着ている。
「はい」
それだけ絞り出すのがやっとで、耳の奥で心臓がドキドキと鳴るのが聞こえ、脈絡もなく昔彼女に別れを切り出したときの気持ちを思い出した。
「最近泳いでる?」
マネージャーはそんな私の内心を察してなのか、軽い様子で声をかけた。
「いえ、最近はめっきり」
「俺はね、久々に、また泳ぎ出したよ」
「そうですか」
私は話の方向が水泳に向いたので、『辞めます』の結論から入る路線から、理由と事情から述べて結論に入る構造に頭の中で組み立て直そうとしたところで、マネージャーの発言に引っかかりを覚えた。
「また?ですって?」
「おいおい、俺はこう見えてもインターハイでファイナリストだぜ」
「えええ?」
私は焦った。
私のスイマー鑑定眼に絶対の自信を持っていた。ジェンガの一番下のブロックを無造作に引き抜かれた気持ちがした。
私はマネージャーを無遠慮にじろじろと眺めた。
広い肩幅、太い首。品の良いネクタイを仕立ての良いシャツに合わせているが、今はリラックスするためだいぶ緩めている。そういえば夏の半袖シャツから覗く腕は確かに常人より太く、力強かった。胸板の厚さもそれと物語っている。業務中、マネージャーがたまに立ち上がって肩のストレッチをしているのを思い出した。
「あれ?言わなかったっけ」
「え、ええ。初めて伺いました」
私はマネージャーから立ち上るトップスイマーのオーラを視ようと目を凝らした。何も視えないし、感じなかった。
しかし、この肩幅、そして胸板。マネージャーの背後を視た。ふむ、よし。
「え、えーと、マネージャーは・・・スタイルワンはフリーのスプリントですよね?」
「おう、俺はバッタだよ。見る目がないなぁ」
マネージャーの『見る目がない』発言は、私に脳震盪クラスの打撃を加えた。ジェンガの塔はガラガラと崩れた。
私は辞意を伝えるための話の構造に致命的な欠陥があることに気づいた。
「あのー、隣のシステム三部の須藤ちゃんも結構なスイマーだったらしいよ。そうそう、あのおっとりした感じの色の白い子。ええ?知らなかったのぉ?インカレとかジャパンでファイナルに残っちゃうクラスだったらしいぜ」
マネージャーはスーツの上着を脱いで隣の椅子にかけ、ワイシャツの袖をまくり上げた。
その後、マネージャーは社内のスイマーたちを続々と数え上げた。システムコンサルの高橋某、ITアーキテクトの金井、業務管理の亀井、産業システムデザイン室の木田室長・・・
「結構いるんだよな。人事が好きなのかもな。俺なんかスイマー見るとビビッときて『こいつ、できる!』ってわかっちゃうぜ」
完全にやられた。
他にも能力者はいた。そして、その能力が完全に機能するかどうかはわからないのだ。
「おっ、わりわり。じゃ、本題に入ろうか」
マネージャーはちらりとグランドセイコーを見て椅子に座り直した。両手を組んで机に置いた。
なかなか話出さない私を見て、マネージャーはどうぞ、というように手のひらを向けた。Your turn.
「えええーっとぉ」
セブンティーンアイス#6
すったもんだの家族会議と、全く異なる業種への転職のコーディネートの困難さを、私は不屈の精神で乗り越えた。
妻は鼻水を垂らして泣いて翻意を懇願しやがて破れかぶれに呆れ返り、娘は何かのイベントのようにウキウキと喜び、転職コーディネーターは不思議なひともいるものだと淡々と業務に邁進した。
堀は埋めた。気が熟したある日、私のマネージャーに相談がある、と声をかけた。
セブンティーンアイス#5
娘がアイスを愛おしげに舐めている間、例の逸材くんをもう少しよく見ることにした。
泳ぎはやはりまだ荒削りだ。しかし特筆すべきは、彼の練習に対する真摯な姿勢だ。
他の子達がふざけあっていても、コーチの言うことを聞きもらすまいとじっとコーチを見つめている。
短いレストも無駄にせずしっかりストレッチをする。
そしてコーチからの指導に対して(例えば今はリカバリからエントリにかけてのフォームだ)、一方的に指導されるのではなく、何かを問うている。コーチは少し考えて、ローリングの様子を示し、逸材くんは納得したようだった。
それから何回か、私は逸材くんを見かけた。いや、会いに出かけた。ある時は娘のスイミングに間に合うように、逸材くんの練習に間に合うように早帰りをし、ある時は私の練習時間を早めて彼の様子を盗み見た。
まるで恋をした中学生のように、日に日に彼の存在は私の中で大きくなった。
彼の練習風景を見て、私が彼にコーチングしている様子を夢想した。彼のフォームを見て、改善すべきポイントを頭の中で列挙した。彼の肉体を見て、十年かけて強化すべき筋肉を見つけた。
もはや中学生の恋を超えて、妻子を棄てて愛人のもとへ走る中年男性であった。
私は安定した家庭を壊し、妻子を棄て、自分の夢を追い求めようとしていた。
そんな中、逸材くんは未熟なコーチの下でもめきめきと地力をつけ、荒削りな円空仏のような泳ぎを身につけていた。私の適切なコーチングを、理論的な、技術的なコーチングを、彼の泳ぎは待ち望んでいた。
セブンティーンアイス#4
私はきっと、食い入るように彼を見ていたのだろう。娘がそばにやってきていたことに気づかなかった。
「パパ」
娘はそっと私の肘に触れた。
私は噛み締めていた奥歯を緩め、詰めていた息を吐いた。
「おう、お疲れ」
「どうしたの?」
「いやぁ、パパも昔こんな感じで泳いでたからね。がんばってるなーって思ってたとこ」
「ふーん」
多少訝しげに私を見つめ、セブンティーンアイスの自販機へと私を引っ張った。
「これ食べたいんだよねー。ママはいつもダメって言うの」
「そんならパパもダメだよ」
「えええー」
娘は困った顔で体をくねくねさせ、内面の苦悩の深さを表現した。
私はうっかり微笑んで、いいよと言った。
彼女はカスタードプリンとブルーベリーチーズケーキで更に悩んだ後、結局ソーダフロートに決めた。
セブンティーンアイス#3
休日出勤の代休を取った。
久々に娘のスイミングスクールの様子を見た。
娘からは、天才の片鱗は伺えなかった。今日も平凡なスイマーとして、四種目を練習していた。私が私のスイマー能力を視ることができたら、やはりこんなものだったのだろう。
ほろ苦く、精一杯やったのだという諦観にも似た思いを噛み締めた。
さて帰ろうかとしたところで、選手育成クラスが始まった。
懐かしいような、歯がゆいような思いとともに若きスイマーたちを見ていると、ある一人の少年がとても目立って見えた。
取り立てて速いわけではない。フォームが美しいわけでもない。
私のスイマー鑑識眼が、彼を特別だと言っている。
私はガラス越しの彼を食い入るように見つめた。脳裏に世界を圧倒する彼の姿が視えた。全世界のスイマーが彼に膝を屈し、電光掲示板に「WR」の輝かしい二文字を視た。
これは、只者ではない。私の本能がそう告げていた。凄い。逸材を見つけた。
セブンティーンアイス#2
いつものスポーツクラブでも、公共プールでも、道行く人でも、私はスイマーを認識することができた。これは一つの才能であり、ユニークな能力であった。直感的に、彼あるいは彼女の泳いでいるヴィジョンが、眼球からの情報を処理しているエリアとは全く別のどこかの、脳裏に浮かぶ。
彼あるいは彼女が考えていることがわかるとか、持っている悪の資質が見えるというなら、もっと自分の才能と能力に誇りを抱くことができただろう。
残念ながら、物質的生活にもあまり役に立たず、世界を救うにもなかなか不向きな能力である。
選手としては鳴かず飛ばずで、個人では全国大会に出るか出られないかの当落線上を彷徨った。チームメンバーから立ち上るオーラに圧倒され、彼らに嫉妬した。才能があるにも関わらず練習を怠る天才には歯痒さを覚えた。
自分自身の泳力は視えないから、自分の泳力に対する不信感と闘いながら、鳴かず飛ばずのまま選手生命を終えた。いまや普通のサラリーマンとして二十年近く勤め上げ、妻と娘を養う身だ。