フリーランチはない? | 秋山のブログ

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マンキュー先生の教科書にある10大原則の最初に出てくるものである。
(ちなみに数学におけるノーフリーランチ定理というのは『問題領域の知識を可能な限り使用して最適化すべき』という話で、むしろ経済学に欠けているものだ)

「フリーランチはない」で検索すると、池田信夫氏がやたら出てくる。どうやらお気に入りの言葉のようだ。(ちなみにteleius225氏もお好きだったようで、しばしば出てきた)

例えばキーボード一つ打つのもコストだというのなら、これはいかなる時でも成り立つだろう。ただしそれでは法則として全く利用性のないものであるから、実際使われる時はもう少し代償がはっきりした形で使われているようだ。池田信夫氏は、『何かを犠牲にしないで何かを得ることはない』という意味で使っていて、例えば国民の心理の変化などには効果がないと言っている。

自粛ムードや倹約精神が過剰に蔓延っている状況を仮定してみよう。物は売れず、社会全体が倹約の我慢比べになるだろう。これが普通に消費するようになるだけで、景気は大きく変わる。この例でも分かるように、心理の変化だけでも大きな変化は起こりうるのだ。この時の犠牲を強いて見つけるのであれば、人々が僅かに多く働き、より生産しなくてはいけなくなったことだろう。しかしもちろんこの場合厚生の増大の方がはるかに大きい。犠牲がなければ何かを得られない例かと言えば、むしろ逆だろう。

注意深く観察すると、フリーランチはないという主張がなされる時に出てくる犠牲は、通常成果と同等であるというニュアンスを含んでいることに気付く。つまり、フリーランチはないという言葉の裏には、現状というものが常に最適化された状態であるという根拠のない思い込みがある。

元になるべき原則と言うものは、現実において普遍性が高く、実証においてそれが証明されていなくてはいけない。フリーランチの話は、全くその域には達していない。単なる思い込みの域を全く出ていない(似たようなものに所謂「見えざる手」等もある)。これを原則などと呼んでしまうのは、とんでもないレベルの話だ。