子どもたちと本気でゲームをする | 父親改革〜真の大黒柱へ〜

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離婚して、同じ人と再婚する機会を得て、「次こそは!」と意気込むも、失敗の日々。
試行錯誤&検証の連続。
父親だって、家族を作れる。
自分の理想とする家族を作るのは、いつだって自分。
そんな理想とする家族の形を新たに構築していった実践を綴るブログです。

お休みの日は、子どもたちとガチでゲームをしています。


switchのマリオパーティー。


次女🍑と三女🍌と。




圧倒的な実力差があるものもあれば、


運要素のものもある。


各自の得意、不得意もある。


全ゲームで勝てるかといえば、そうではない。



負けると悔しい。


それは大人も子どもも一緒。





ワタシは手加減はしない。


自分を追い込んだり、ギリギリにチャレンジする時に、加減はする。


けれども、それは子どものためではなく、


自分が楽しいから。


自分がゲームを楽しむため。




手加減して負けてあげた時の、つまらなさといったら。


これは自分だけではなく、子どもたちにも伝わる。


お互いにつまらない。



しらけるんだよね。


手応えのなさ。


さっきまでのは、なんだったの?


素直に喜べない。


子どもを騙すことになる。



こんなので勝って嬉しいの?って感じ。



三女はよく泣く。笑


「おとーさんつよすぎるーーー!」って。


それに対しておとーさんは、


「ふっふっふ!強いだろー!昔からゲームやってるから、強いんだ!ワッハッハ!」



子どもたちは、泣きながらも挑んでくる。


そして、また泣く。笑






ゲームの勝ち負けって何だ?


相手に勝つこと?


コンピューターに勝つこと?




マリオパーティーの場合、


ミニゲームがたくさんある。


操作性、タイミング、戦略…などなど。



そのミニゲームをどう攻略していくか?が楽しい。


子どもたち相手に勝つことではない。


自分がどう楽しむか。


ミニゲームを通して、過去の自分が学習したことの蓄積を、反映させている。



簡単に言ってしまえば、


過去の自分を超えられるか。


のようなもの。



勝ち負けは結果的にそうなったもの。



自分の戦略が上手くいっていても、今度は相手という要素も踏まえて攻略していかないといけない。



相手の動きをみながら、予測しながら、またゲームをすることで、いろんな情報を踏まえて、また戦略を立てて、相手に勝てたりもする。



自分主体から相手主体



ある程度、相手をみることが出来たら、


また自分主体。



とりあえず、一つ一つのミニゲームをどう攻略するか?しか考えていない。


攻略の先に楽しさがある。




そんな風にゲームを続けていると、


🍑さんが、


「おとーさんに勝つまでやる!」と初めて言った。


どう操作したら、いい点数が出るか?


それを一回一回考えながら、何度も挑んでくる。



時には、どうやっているか見て、真似てみたり。



ワタシ自身のゲーム歴も長いし、子どもたちは子どもたちで、まだ十分に体を使えていない。経験も足りていない。


良く大人が子どもにいう

「まだ小さいからね」


ま、そうなんだけどさ。



そうなんだけど、


前までは諦めていたし、癇癪を起こしていたんだよね。



つまんない。から、その中でも楽しさを見出せるようになってきた。



だからさ、


子どもとゲームやる時に、


「負けたら泣くだろうな」とか、


「荒れるだろうなー」とか


そんなこと考えずに、


親が、大人がゲームを純粋に楽しんでみたらどうかな?



ただ、過剰な喜びとか、相手を挑発することは不必要だよ。


それは、「相手に勝つ」が目的になっているかもしれない。



そんなことされたら、自分もイヤだし、つまらなくなるよね。



まぁ、色々と書いてみたけど、


どうしても勝てないゲームもあります。



オトナゲナイかもしれないけど、


「くっそー!もう一回!」ってやってもらいます。


オトナゲナイ。大人とか子どもとか関係なく、


いちゲーマーとしての発言です。


ゲームを楽しむ、いちプレイヤーなんだから、大人も子どももあまり関係ないよね。



うまく出来なかった、己への悔しさ。


だから、子どもたちも、


笑いながら、「いいよー!」って楽しんでくれます。



こんな感じで、子どもとゲームしてみるのはどう?


ワタシはとても楽しいよ😊




もうすぐ空が飛べそう。とのことです。



子どもとのゲームの向き合い方、こんな記事もありました!


一読あれ!


ゲームの勝敗でかんしゃくを起こす子どもに出来ることは、大人げない大人になること