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本一周一人旅 6周目挑戦中
ウオーキングとエアロバイクの歩数合計で記録
2026年8月9日〜2026年8月12日 4日間 48.7㎞
スタートから 5,00.7.5㎞+今回歩行分 48.7㎞=5056.2㎞
江差を2.2㎞ 通過 次 北桧山迄 73.8㎞
日本一周8,955㎞-5056.2㎞=3,898.8㎞(残り歩数)
毎日暑いのでウオーキングは近くの大型スーパーと家の中をウロウロ。
過去の記録
第1周目 2009年12月23日 スタート 2013年8月15日ゴール
第2周目 2013年08月16日 スタート 2018年2月26日ゴール
第3周目 2018年02月27日 スタート 2020年8月27日ゴール
第4周目 2020年08月27日 スタート 2022年9月04日ゴール
第5周目 2022年09月04日 スタート 2025年2月02日ゴール
第6周目 2025年03月01日 スタート ????
金の卵 連続ブログ小説 №48
暫らくして麗子が来る。
「ごめんなさいね、待たしてしまって」
「いや、どうもないです」
「やっと、決心して私の処に来てくれて有難う」
「いや、こちらこそ感謝しています」と頭を下げながら、今日は車の事まで世話に成ってしまった事のお礼を延べながら、又頭を下げた。
「失礼します」と障子戸が開くと大皿に載った料理が運ばれてきた。
食べたことが無い大きな肉に野菜、見るからに美味しそうである。
鉄板が温まると、油身をのせて溶け出すと一面に塗り広げられ肉が載せられた。
コップにビールを注ぎ乾杯して、一気に飲み干した美味しさが喉を刺激し、胃袋におさまるのが解る。
何時もは、食堂で飲むビールは注文すると作る言わばインスタントビールである。
インスタントビールはどのようにして作るのか知らないが、値段は半額でもアルコールは強いらしく良い気持ちになるので時々飲んだ事があった。
鉄板の上の肉が小さな音を立てて焼けてくる、周りに野菜が載せてある。
「もう、食べられるからお食べ」麗子の言葉に清三は「戴きます」と箸を持ち食べだした。
「食べながらで、いいから聞いておいてほしい」
「ハイと言いながら、肉を取りタレをつけて口に入れた」
「明日から店に入ってもらうが、店長の指導を受け早く一人前になって店を持って欲しいと思っている、目標は三年がんばって下さい」
「ハイ、解りました努力いたします」
「一つだけ、必ず守って欲しい事があるの、若さの捌け口を女性に求めるのは仕方ないが店の女性だけは手を出さないで。商品ですから、解りましたか」
清三は解りましたと、返事はしたが余り真剣には受け止めていなかった事が後に成って解るのであった。
つづく
日本一周一人旅 6周目挑戦中
ウオーキングとエアロバイクの歩数合計で記録
2026年8月5日〜2026年8月8日 4日間1日休み 37.4㎞
スタートから4,970.1㎞+今回歩行分 37.4㎞=5007.5㎞
竜飛岬を11.5㎞ 通過 次 江差迄 46.5㎞
日本一周8,955㎞-5007.5㎞=3,947.5㎞(残り歩数)
毎日暑いのでウオーキングは近くの大型スーパーと家の中をウロウロ。
過去の記録
第1周目 2009年12月23日 スタート 2013年8月15日ゴール
第2周目 2013年08月16日 スタート 2018年2月26日ゴール
第3周目 2018年02月27日 スタート 2020年8月27日ゴール
第4周目 2020年08月27日 スタート 2022年9月04日ゴール
第5周目 2022年09月04日 スタート 2025年2月02 日ゴール
第6周目 2025年03月01日 スタート ????
「原爆の日」 キノコ雲の下に父は居た
この記事は毎年8月6日にアップしている記事です。
原爆の日になると、毎年父の事を何時も以上に思い出します。
この記事は毎年再更新しています。時間があったら読んで下さい。
八月になると広島で原爆に遭遇した父のことを思い出す。
父が復員して来てから聞いた話を思い出しながら書いて見ました。
広島市外に在る部隊(地名は忘れたが山の中と聞いている)を朝早く出て市内の部隊に着き、兵隊さんは二階の食堂に集合した。
父は輸送トラックの運転手、車を点検し、食堂に向かった、階段の中程まで来ると、何かが起こった。
気がつくと階段下の大きな箱の中に居たと言う。
二階では隊員達のうめき声、ガラス窓のガラスが隊員達の顔や手、夏なので薄着の為服の上からも、ガラスが刺さり、食堂は血に染まり地獄と化したそうです。
父だけは、幸い負傷はしなかったが、胸に入れていた兵隊手帳の三分の一位にガラスが刺さって居たそうです。(子供のころその手帳を見た記憶がある)
部隊は何が起きたが解らず、隊員を治療し軽症の隊員を集め調査に向かう、何処に大きな爆弾が落ちたか解らず、中心地に行くことも出来なかったそうです。
歩きながら、靴の裏が熱くなるのが解る、道端に負傷した市民が「兵隊さん、水を下さい」と、か細い声で訴える。
此処で、水を飲ませると息絶える、解っていても、水を飲ませると人間の顔になって息絶える。
そのまま、水を飲ませなくも死んでいく、飲ましても笑顔は忘れていた。
思い出して書いて居ると、父のこと負傷した広島市民の人たちの事を考えると、胸が詰まり涙が出て書けません。
大型爆弾としか解らないその被害に絶句したと言う。
元安川には死体が数え切れない程浮かび言葉では表現出来ないと言う。たぶん、水を求めて川に行き自ら死に水を飲んだと言う。
かろうじて、生き残った人、衣服はぼろぼろ、スカートは暖簾の様に裂け、道端に倒れた人がゴロゴロ、負傷者を見ると、まだ助かると思った負傷者、殆どが火傷、火傷には油、しかし油は無いそこで、自動車の油と灰を練って薬の代用にしたそうです。
薬を塗布するとき皮膚が剥がれ・・・・・
今思えば、灰には放射能があったのだろうか、その時は解らない放射能入りの代用薬で一命を取り留めた人が居たのだろうか。父のした行為は正しかったのだろうか? 疑問に思うが当時はそれが最善と信じている。
父は戦後残務整理に参加し復員が遅くなったが帰って来たのをはっきり覚えている。
コウリャンのおにぎり、兵隊さんが使っていたアルマイトのボールの入ったリック(雑納?)・・「父ちゃんが帰って来た」と走って迎えに行った。
暫らくすると、「聞けわだつみの声」と言う原爆を題材にした映画が封切られた、見に行こうと言うと、父があの惨状はどんな名匠でも表現出来ないだろうと言う。
又、表現してはならないとも言った言葉が残っている。
おわり


















