下の図で,縦,横,斜めの3個の整数の積がみな等しくなるように0でない正の整数を入れていくと,Aに当てはまる数は何ですか。

(関東学院中入試問題・改題)







ちびはなの数学科通信『ROOKIES』  





A=6(ちなみに積は216です)

右の図の7つの部分の,赤,黄,青の3色で同じ色が隣り合わないように塗り分けます。キを赤で塗ったとき,ア~カの中で,赤で塗ることができない部分が2か所あります。それはどことどこですか。








イとエ

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下の図のように,円をa,b,c,d,eの5つの部分に分けた図形があります。この5つの部分を,赤,青,黄,緑の4色で塗り分けます。隣り合う部分は異なる色で塗り分けるとき,下の問いに答えなさい。ただし,(1),(2)とも,赤,青,黄,緑の4色をすべて用いるものとします。



(1) aを赤,bを青で塗ったとき,残りのc,d,eの塗り方は全部で何通りあるか求めなさい。



(2) aを緑で塗ったとき,残りのb,c,d,eの塗り方は全部で何通りあるか求めなさい。



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(1) 4通り
(2) 12通り

四色定理とは、「どのような地図も、隣接する領域が異なる色になるように塗るには4色あれば塗り分けることができる」という定理のことをいいます。ただし、「飛び地のような領域は考えない」という条件はつきますが。


現在この定理は証明されていますが、証明される前は、「四色問題」とも呼ばれていました。またこの定理は解決(証明)までの期間が非常に長かったため、証明された現在においても「四色問題」と呼ばれることがあります。


この「四色問題」は映画「容疑者Xの献身」でも出てきました。福山雅治演じる物理学者湯川学が、帝都大学時代の友人である石神哲也(堤 真一)の殺人容疑を解明していく物語です。その2人が大学時代に交友を持つきっかけになったのが、この「4色問題」です。


1976年、当時世界最速のスーパーコンピュータを利用してこの定理が証明されました。しかし、今でもコンピュータを使用しない証明はなされていません。帝都大学に入学した石神はコンピュータで証明された理論を「美しくない」と一蹴し、自らの手で証明を試みます。その姿勢に湯川は感嘆し交友が始まったのです。


ここで大事なのは「数学は物理学と違い、その証明にエレガントさ(美しさ)が求められる世界である」ということです。答えを出すだけが数学ではないんですね。その過程において、最も美しい道筋で問題を解くことに、数学の面白さがあります。



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18世紀、ニュートンの権威もあり、光は粒子(粒)だと信じられていました。
しかし19世紀になると、ヤングの奮闘によって光の波動説(光が波である説)が有力になってきました。ここで問題になるのが、光が波ならば、その波を伝える媒質は何か、ということです。それが「エーテル」というものです。


媒質についてもう少し詳しく説明すると、例えば音波なら、空気が媒質になります。空気が動いているとき、つまり風が吹いているときは、音の速さは、風下では通常の音速(風が吹いていないときの音速)に風速がプラスされます。風に乗って音が早く届くことを意味します。また風上では音波の速さはマイナスされます。
さて光に話を戻すと、光あれ!と神がいってこの世界が始まった…というのは関係ありませんが、光は全宇宙に広がっていると考えましょう。すると、媒質であるエーテルも空間全部に広がっていると考えられます。そしてそのエーテルの中を地球が動いている…それは自転や公転のことを指します。すると、地球にはエーテルの風が吹いていることにもなります。自転車で走れば、天然の風が吹いていなくても、吹いていると感じられるのと同じことです。


そうなると、音速と空気の風との関係と似たことが、光速とエーテルの風との間にも起こっているはずになります。それを計測しようとしたのが、アルバート・マイケルソンという学者です。このマイケルソンは、エドワード・モーリーという学者と共同で、この実験人取組ました。彼らはマイケルソンが設計した干渉計を使い、1887年までに、地球上で互いに直角方向に伝わる光の速さの違いを何度も調べました。その結果は初めの予想とはまったく異なっていました。エーテルに対する地球の運動方向は光速にまったく影響を及ぼしませんでした。つまり光はどの方向にも同じ速度で進んでいたのです。こうなるとエーテルはまったく存在しないことになります。結局何が何だか分からなくなった、というのがこの実験での当時の結果でした。

この問題を解決したのがアルバート・アインシュタインです。問題を解決したというよりむしろ、マイケルソンとモーリーの共同実験を「光速度不変の原理」としたのです。つまりマイケルソンとモーリーの共同実験はアインシュタインによって、原理へと昇格したのです。さらにアインシュタインの特殊相対性理論がこの原理の上に築かれました。それはニュートン力学からの飛躍にほかなりません。


このように度重なる実験、理論の上にさらに新しい理論が構築され、現代に至っているのです。



互いに等速度運動をするすべての物質に対し、光の速さは常に一定である。





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最近の小、中学校ではあまりやらなくなりましたが、以前は知能テストをする学校が多くありました。


例えば立方体の展開図を当てる問題や、簡単な足し算をしたりする問題など、テストというよりむしろパズルのような問題が出題されていました。でもこれで頭のよしあしが決められてしまってはたまりませんね。


しかも驚いたことに、テストの結果はその本人に教えられませんでした。それは自分の知能指数が分かってしまうと、本人がショックを受けてしまうという配慮からです。逆にいうと、そのくらい知能テストによる知能指数は信用(?)されていたのです。


そもそもkの知能指数は、1905年、フランスの心理学者ビネーが発案したものです。その後、シュルテンという学者が、精神年齢を生活年齢で割ったものを知能指数としました。そのことで年齢によって知能の比較ができるようになりました。


 知能指数 = 精神年齢 ÷ 生活年齢 × 100


で知能指数は求められます。


 これを計算し、140以上は英才、120~139は優秀、90~119は正常などといった分類がされました。しかし、この数式をよく考えてみると、実年齢よりマセていれば、その人の知能指数は高くなります。これは子どものころの環境などに左右されることが非常に大きく、本当のその人の能力や才能とはあまり関係がないということが最近の見解です。


 よく諺にもあります。


   「10で神童、15で天才、20すぎればただの人」


 つまり、子どもの頃にいくら周りから誉められていても、大人になったらそうは変わらない。逆に、子どもの頃普通だと思われていた人が、大人になって快挙を成し遂げる。そんなことはこの世の中たくさんあります。まだまだ未完成なこの時期。大人になってからの成功は「今の努力」だと思いませんか?




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 あの大きくて重い飛行機。それがなぜ宙に浮いてしまうのか、それにはダニエル・ベルヌーイと言う科学者によって発表されたベルヌーイの定理と言うおのが深く関わっています。


 その定理は通常の生活でも実感することができます。例えば駅のプラットホームに立っていると、通過する電車に引き込まれそうな感覚になります。


 そもそも物体が動き始めると空気の粘性が原因となって、物体の近くの空気も、その物体に張り付くように一緒に動いていきます。それに引きずられ、物体からある範囲内にある空気も同じ方向に流れるのです。


 ここでベルヌーイの定理が登場します。



流れの中では、流れの圧力は高い。圧力は低く、遅いほど圧力は高い。



のです。飛行機が宙に浮くのはこの原理のためです。


 翼の上部が下部より空気の流れが速く、圧力が小さくなり、そこに生じる圧力差が揚力となって、宙に吸い込まれるように浮く、というわけです。

 ちなみに、この定理を考案したベルヌーイさんの家は、オランダのフランドル地方から古くスイスに移住してきた一族で、長い年月にわたり、多くのすぐれた学者や芸術家などを生みだしてきました。とくに17世紀末から約100年間に8人の優れた数学者を輩出しました。このダニエル・ベルヌーイさんもその1人なのです。



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 フルマラソンの距離が42.195キロというのは既に常識。しかしなぜ42.195キロになったのかと言えば、(?)ではないでしょうか?どうしてこんな中途半端な距離になったのでしょうか?それには歴史をさかのぼる必要があります。


 紀元前490年、ペルシア軍と戦争していたギリシア軍が勝利しました。そしてある兵士が、その勝利を伝えるために戦場のマラトンから首都のアテネまで走りました。その距離が42.195キロ、ということでマラソンの距離が42.195キロになったとされています。しかし真相は…この兵士が走った距離は36.75キロと42.195キロよりも短かったのです。それを証拠に第1回のオリンピックであるアテネ大会のマラソン競技は、36.75キロで行われました。

 ではなぜ42.195キロになったのでしょうか?それは、第4回のロンドン大会。当初のマラソン競技のコースはウィンザー城から出発し、ジェファートブッシュ競技場までの約41.842キロに設定されていました。しかし、競技場の貴賓席に観戦にきていたアレキサンドラ王女の目の前をゴールにするため、距離が伸びてしまい、42.195キロになったのです。そして第8回パリ大会からは、42.195キロがフルマラソンの距離として正式に固定しました。


 このように競技の距離を変えてしまうほど当時のイギリス王室の権威は強かった、ということを示しています。数字の決め方は国力、歴史が深くかかわっているのです。



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