実は、ユメガカナウトキ…は、大好きな映画の影響を受けている。
私はその映画については、なんべん見ても泣いてしまう。
ボロボロになるくらいに。
主人公の置かれた立場や、思いが、自分の境遇に似ていて、まるで自分のこれまでの人生を見ているような気分になっている。
あるお告げを聞いて、突拍子もない行動にでて、あるとても素敵な体験をする。それは、主人公の過去への償いでもあり、天国の存在を確信することでもあり…
とても不思議な映画である。
このくらい書けば、それがなんという映画かわかる人いるかな…
平常心を忘れない。
それだけで、すごい進歩だと思うのです。
なんだか不思議と、必ず上手く行く気がするのです。
絶対に上手く行くと思うのです。
なんの根拠もないのにね~
だひたすらに、そんな思いの継続だけでもいいのです。
言い切ります。
それだけで、すごい進歩だと思うのです。
なんだか不思議と、必ず上手く行く気がするのです。
絶対に上手く行くと思うのです。
なんの根拠もないのにね~
だひたすらに、そんな思いの継続だけでもいいのです。
言い切ります。
自分が感動するポイントや、いつも感じていることを、全くの他人が同じように感じていることを知ったとき、例えようのない感動がある。
自分だけじゃないんだと。
書籍のなかの文書で、それを感じると、いっぺんにその作者のファンになってしまう。
感動の共有ができる人
太宰もそうだった。
星野道夫も同じだった。
彼らのような作家になりたい。
自分だけじゃないんだと。
書籍のなかの文書で、それを感じると、いっぺんにその作者のファンになってしまう。
感動の共有ができる人
太宰もそうだった。
星野道夫も同じだった。
彼らのような作家になりたい。
iPhoneのCMをみていたら、胸が痛くなるのはなぜ
冷静に対応しなければ
明日へのつながり。見積依頼は嬉しいな 。
提案できるお話しが、頭の中に沢山湧いて来た。
生きるのが、まあまあ楽しくなってきた。
いや、絶対に生きるのは楽しくて、素晴らしいことだ。
この歳になってやっと気づいたよ。
雨の日は確かに憂鬱だったりするが、晴れた日の喜びのためかな
書き直す
雨の日の憂鬱は、晴れた日の爽快感のため
台風の後の涼しい朝って、秋の入口みたいな気がする。
まずはね、思いをしっかりと固めて、
自分のやりたいことは間違っていないかどうかを確認して、
何度も自分に問い直して、毎日、なんべんも。
それで思いが変わらなければ、行くべきだと思うよ。
もっと若い頃ならね、当たって砕けろ!!でもいいのさ。
砕けても、なんとか復活できるのさ。
でもね、おじさんになるとそうもいかない。
だからね、私は自分の書いたものを、数日ほっておく癖がある。
文章を熟成させるのさ。
数日後に読んでみて、恥ずかしいと思うなら誰にも見せずに削除さ。
本当は、文章が熟成するんじゃなくて、自分の思いが成長するんだろうけどね。
だから・・・
よーく考えてね。
ただ、それがね、人の喜んでくれることかどうか・・・
それが一番大事なのかもね。
なんべんも、なんべんも、なんべんも確認してみようね。
自分の思いに間違いがないかね。
自分のやりたいことは間違っていないかどうかを確認して、
何度も自分に問い直して、毎日、なんべんも。
それで思いが変わらなければ、行くべきだと思うよ。
もっと若い頃ならね、当たって砕けろ!!でもいいのさ。
砕けても、なんとか復活できるのさ。
でもね、おじさんになるとそうもいかない。
だからね、私は自分の書いたものを、数日ほっておく癖がある。
文章を熟成させるのさ。
数日後に読んでみて、恥ずかしいと思うなら誰にも見せずに削除さ。
本当は、文章が熟成するんじゃなくて、自分の思いが成長するんだろうけどね。
だから・・・
よーく考えてね。
ただ、それがね、人の喜んでくれることかどうか・・・
それが一番大事なのかもね。
なんべんも、なんべんも、なんべんも確認してみようね。
自分の思いに間違いがないかね。
明日はなにかスカッとすることをしよう!
毎日、毎日、毎日、毎日考えても、答えが出ない。
悩んでいるつもりはないさ。立ち止まるわけにはいかないだけさ。
ここに書き込み、自分を再確認する。
いい人であることと、いい社長であることは全く別な話しだと思う
しかし、信頼されるということは一番大切だと思う。
たいして失って困るものもないのだから、怖がることないさ。
思いつきで放った言葉にも、本当は深い意味がある。全て必然。
働く
at 2004 12/10 21:11 編集
誰が決めたかは知らないが、私たち日本人は、働かなくてはいけない。
これまた誰が決めたかは知らないが、それは国民の三大義務の一つでもある。
権利ではなく義務である。
・・・「働く」・・・
若い頃は「○○な仕事がしたい・・」とか、
「○○みたいになりたい」などと職業につくことに対して
「したい」や「・・・になりたい」
つまり希望・・・であった。
そして昔は、その「したい」を世間が受け入れてくれたのだった。
それで就職できたのである。
しかし、年をとると違ってくることに気づいた。
「○○ならできるかも知れない」「○○なら多分できると思う」
「したい」は希望であってそれは、自分自身の価値観だけの問題ですんでしまう。
だが、「できるかもしれない」、「多分できる」はそうではない。
「できる」という言葉は、そう思う本人だけで決められることではないのである。
第三者が「これならOK」と評価してくれて初めて成立する言葉なのである。
ニーズに答えることのできる人のみ、世間は受け入れてくれるのである。
そして、「必ず何かできることはある」と信じて私は明日も生きるのである。
いつだったか、確か小学3年か4年の夏休み、
学校は休みだし、セミ取り、プール、海水浴と
毎日がとても楽しかった。ずっとこのままでいたいというよりは、
9月になって、学校が始まるのが怖かった。そんなある夜、
私は思った。「今のこの瞬間が永遠に止まったままならそれは
幸せなことだろう。神様、このまま時間を止めてください。」
しかし、ふと気づくと私は始業式の列の中で立っていた。
楽しく心地よい瞬間は本当の瞬間である。
今思うのは「気が付くと始業式」どころか、30年が過ぎている。
私自身、なぜそんなことをよく覚えているのかわからないが、
最近よく思い出す。
私は、いつも感動したいと思う。
そして、常にその感動を他人に伝えたいとも
思っている。
「小説」というひとつの表現方法がある。
そして、おそらくはその対極的な位置に
「詩」というものがある。
小説家と詩人の一番の違いはなんだろうか?
昔、なにかの本で読んだことがある。
小説作家は、本当に言いたい1行の真実の
ために、100ページの脚色を書く。
それに対して詩人は、たったひとつの感動なくして
1行の文章も書けないそうである。
なるほど・・・・わからなくはない。
しかし、どちらも何か自分のなかに感動
があり、それを他人に伝えたいという気持ちから
表現していることには相違ない。
私は両方共に憧れるが、まだまだ未熟である。
修行の日々は続くのである。