令和二年九月下旬。N病院入院当日。荷物持ちの彼氏とともに通された病室は何故か個室だった。案内してくれた事務員に、
「申し込んだのは個室じゃなくて準個室ですが」
と確認した。準個室なら差額ベッド代は一日二千円で済むが、個室は一万五千円もする。だが事務員は、
「いや、こちらに通すように指示があったので」
と困っているようだった。どうしようかと戸惑っていると、入院の荷物を確認しに来た看護師に、
「今日のところはここで間違いないが、状況によっては移動をお願いするかもしれない」
と言われ、きっと準個室が満床なのだろうと納得した。日数限定かもしれないが、差額二千円で個室に入れるのだから、この上なくラッキーだ。
そうと決まれば初めての個室を満喫しようではないかと、すっかりテンションが上がった。病室は落ち着いた色合いの内装で何より新しい。国道が近いせいか、昼間は選挙カーや街宣車が喧しく、夜には原チャリ暴走族が元気よく走り回るのが玉に瑕だったが。
入院翌日の午後から蓄尿を始めたが、匂いの問題や容器の始末など、やはり個室のトイレであるという事がとても有難かった。電気の付け消しなどの細かいことも、他の患者さんに遠慮せずに済み、深夜のお手洗いも楽だった。
何より、今迄の入院の時と違って、好きな時に自由に窓を開けられるので、常に初秋の爽やかな風を味わうことが出来て、いい気分転換になった。それになんだか食事も美味しい。この調子で今回も抗がん剤治療を乗り切ってやるぞ、と意気込んだ。因みに、最終日まで部屋の移動はなかった。
腎臓機能に著しい問題はない、という事で、入院五日目より予定通りDCF療法が開始された。
初日は順調だったが、二日目の朝には顔が真ん丸に浮腫み、頬が真っ赤になった。その夜から食欲がなくなり、三日目の午後には殆ど食事が取れなくなった。
この夜は中秋の名月という事で、母から
「こちらでは奇麗な月が見えていますよ。大阪はどうですか」
とラインが届いた。
月なんてどうでもいいやん、とうんざりしたが、慰めようとしている母を無下にも出来ず、無理やり身体を起こしてベランダから身を乗り出すと、あべのハルカスの横にぼんやりと、しかし明るい満月が見えた。写真に収め、ラインで送る。それだけで精も根も尽き果てた。
持続点滴後半になると、吐き気や眩暈、全身の倦怠感など、以前のFP療法に比べ、副作用は桁違いに強くなったと感じた。常に眠って楽になろうとするため、時間の感覚もなくなってくる。
何より辛かったのは、精神的に完全に内向きになっているところに、向き合うのが人間ではなくネットになってしまった事だろう。見える情報は、全て暗いものばかりだった。むしろ、暗いものを無意識に選んでいたのかもしれない。
こんな治療をしたところで寛解するわけない。どんなに治療したところで、リンパ節に転移してしまえば二年と持たずに死んでしまうではないか。生きている限りこんな治療を続けなければならないのなら、早く楽になってしまいたい———。
ラインやメールでの応援にすら腹が立った。
「頑張って」「早く良くなってね」「ゆっくり休んでね」
これ以上何を頑張れというのか。風邪でもあるまいし、寝れば治るとでも言うのか———。
言葉にならない苛立ちに頭が割れそうだった。
医師も看護師も何でも相談してくれと声を掛けてくれたが、じっと耐えるしかない数日間が過ぎた。そしてようやく全ての点滴が終了し、二日後に退院した時には、やっと悪夢から覚めたようだった。