日本には、家に入る時に靴を脱ぐ習慣があります。
世界を見回してみると、少数派のようです。
いつ頃からどういう理由で、そのような習慣が身についたのでしょう?
考古学や文化人類学、民俗学などの様々な見地から、色々なことが考えられそうです。
聖書の出エジプト記には、
神さまが、モーセに靴を脱ぐよう命じている箇所があります。
当時の靴は皮製のサンダルのようなものだったようです。
モーセが羊を追って「神の山ホレブ」に来た時、
柴を燃やし続ける、不思議な炎が現れます。
その炎の中から、何者かが、
「モーセ、モーセ」と話しかけるのです。
モーセが神さまと出会う場面です。
そして…
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神は言われた、
「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。
あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。
出エジプト記 3:5 JA1955
https://bible.com/bible/81/exo.3.5.JA1955
このあと、モーセに名前を聞かれた神さまが、
「わたしは、『わたしはある』
というものである」
と答える場面は、心が震えるシーンです。
よろしければ、
出エジプト記3章を読んでみてください。
(この『わたしはある』の部分は、いろいろな訳があります。
ヘブライ語で「ヤーウェ」という神さまの名前です。)
モーセが、
「十のことば」(十戒)を授かったのは、シナイ山という山でした。
その時、彼は断食をして40日間、山から下りませんでした。
(モーセは神さまに会うために、8回シナイ山に上り、断食も何度かしています。全てイスラエルの民のためでした。)
その約2060年後、空海は高野山に金剛峯寺を建て、修行の場としました。
日本を含め、アジアの数ヶ国にしか見られないという山岳信仰と、モーセが神さまに会いに山へ登るお話は、何か関係があるように思えてなりません。
また、火を使う台所に神さまを祀ることも、無関係ではないかもしれません。
火に宿る神さまがいる家へ入る時、靴を脱ぐようになったと考えても、不自然ではなさそうです。
そして聖書の中には、もう1ヶ所、
登場人物が靴を脱ぐ場面があります。
「主の軍勢の将」が、ヨシュアに現れた時でした。
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すると主の軍勢の将はヨシュアに言った、
「あなたの足のくつを脱ぎなさい。
あなたが立っている所は聖なる所である」。
ヨシュアはそのようにした。
ヨシュア記 5:15 JA1955
https://bible.com/bible/81/jos.5.15.JA1955
皮のサンダルは、実際に砂や泥が付着していて汚れていますが、
罪に満ちているこの世と接触している点でも、汚れていると言えます。
少しの罪も許さない、聖なる神さまのいる場所では、
汚れている皮のサンダルは、脱がなければならなかったのかも知れません。
幕屋や、神殿においても、祭司は裸足だったそうです。
また、サンダルの材料である皮は、動物の皮で、その動物の命が犠牲になっています。
命の犠牲はイエス・キリストの型です。
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主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。
創世記 3:21 JA1955
https://bible.com/bible/81/gen.3.21.JA1955
罪の身代わりとなったものは汚れています。
皮のサンダルは、人間の罪を代わりに負ったキリストを間接的に示す点においても、汚れているといえます。
また、
イスラエルの民は、エジプトから脱出し、カナンに入るまでの40年間、荒野を旅し続けるのですが…
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わたしは四十年の間、あなたがたを導いて荒野を通らせたが、
あなたがたの身につけた着物は古びず、足のくつは古びなかった。
申命記 29:5 JA1955
https://bible.com/bible/81/deu.29.5.JA1955
イスラエルの民の靴は、神さまが40年間守り続けたものでもありました。
身をもって経験した神の奇跡は、民衆の心に強く刻まれ、後世に残されてゆくものと思います。
皮のサンダルは、聖なる場所では取り去られなければなりませんが、この世を歩む時は非常に大切なものでした。
聖書のルツ記には、皮のサンダルが、契約において必要となる重要なものとして使われていたことが書かれています。
靴は、自分の権利を象徴するものとなっていました。
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むかしイスラエルでは、物をあがなう事と、権利の譲渡について、万事を決定する時のならわしはこうであった。
すなわち、その人は、自分のくつを脱いで、相手の人に渡した。これがイスラエルでの証明の方法であった。
ルツ記 4:7 JA1955
https://bible.com/bible/81/rut.4.7.JA1955
神さまのいる聖なる場所では、自分の権利は放棄されなければいけないという意味も、含まれていったかも知れません。
仮説ではありますが、
家に入る時に靴を脱ぐ…
この習慣のルーツが聖書にあって、
形骸化してしまっているにせよ、
世界の東の果てである日本にまで
到達して、
浸透している可能性がなくはないと考えると、本当に驚くばかりです。
