私の母方の先祖は隠れキリシタンで、父方の宗教は真言宗です。
真言宗の開祖、弘法大師空海は唐に留学している時、景教という教えに影響を受けたといわれています。
景教といえば、キリスト教と深い繋がりがあるらしいです。
真言と言ったら、真のことば…
ヨハネによる福音書の書き出し
をまず連想してしまいました。
初めに言(ことば)があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。
そしてこの命は人の光であった。
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
ヨハネによる福音書 1:1-5
最近、乳がん繋がりで小林麻央ちゃんのブログを読むようになり、ご主人の海老蔵さんのブログも読むようになりました。読んでいいねを押してお祈りすることにしました。
海老蔵さんと麻央ちゃんといえば、成田山新勝寺で結婚奉告をされていました
調べましたら、成田山新勝寺は真言宗のお寺で不動明王様をお祀りしていました。
そして不動明王様の姿を見ていて、あることに気づきました
剣と縄を持っているので、一見したところ裁く神さまです。
剣も縄も、聖書の神さまと関連性の深いアイテムです。
光背の前にいる不動明王さまは、まるで炎の中にいるみたいです。
よくよく眺めているうちに、ある聖書のお話を思い出しました。
ダニエル書に出てくる燃える炉のお話です。
不動明王様は、燃える炉の中の4人目の人物としても見えてくるのではないかしらと。
この人物は一説ではイエス・キリストといわれています。
裁くだけでない、燃える炉の4人目の人物は炎の中から人間を救う神として描かれています。
裁く神であり、救う神でもある。
そして、もう一つの見方が浮かび上がります。
不動明王様自らが炎の中で苦悶の表情をしていることです。
これは十字架上のイエス・キリストに他なりません。人間の罪に対する裁きを身代わりとなって
受けているため、苦悶しています。
空海が一刀三拝しながら、全身全霊の祈りを込めて彫上げたというのも頷けます。
人間が自らの罪を認め、それに対する裁きを神が身代わりとなって背負ってくれたことに感謝するならば、裁きの炎から救われるという、
聖書の福音の根幹だからです。
成田山新勝寺のHPを見たら、ちゃんと書いてありました。
不動明王様は忿怒の表情で人を救うと。
神さまは人間を深く愛しているので、忿怒は苦悶と言っても良いと思います。
そして、愛なる神さまは私たちが苦しみの中にいる時、いっしょに苦しんでくださる方でもあります。