神泉苑を出てから南に下りました。
地下の阪急の線路を知らぬ間に越えました。
そして京福電鉄嵐山線(嵐電)の踏切にさしかかりました。
遮断機が降りてきて踏切の前で電車が遠り過ぎるのを待ちました。
バト電(パトカーの格好をした電車です)が来たりして?なんてカメラを構えていると本当にバト電が来てしまいました。
慌ててシャッターを切っても間に合いませんでした。
去りゆくバト電が小さく撮れました。
残念です。
仕方がないので踏切を渡った先にいた本物のパトカーを撮りました。
さて踏切を渡って少し西にある壬生寺に着きました。
参道沿いのテントの中ではこんなものが売られていました。
ほうらくです。
このほうらくに家内一同の年齢や願いごとを書き奉納すると、四月の壬生狂言「ほうらく割り」の演目中に割られます。
これにより災厄を落とし、願いごとがかなうとされています。
本堂にお参りして御朱印を戴きました。
もう1つ御朱印を戴いたのですが今は内緒にしておきます。
壬生寺の節分行事としては壬生狂言があります。
参詣者の厄除・開運を祈願し、壬生狂言三十番組のうち、節分の豆まきをユーモラスに仕組んだ「節分」が繰り返し上演されます。
次回の上演30分前に並びました。
非常線として張られたロープの外になってしまいました。
次回の公演を見られるか微妙です。
でも、何とか狂言が演じられる大念仏堂に入ることができました。
ここから先は写真撮影禁止です。
まず壬生狂言とは何か?お寺のHPより
壬生狂言のはじまり
当時、円覚(えんがく)上人(しょうにん)の教えを来聴する大衆が数十万人にも及んだので、人々は上人を「十万(じゅうまん)上人(しょうにん)」と呼んでいました。
上人は、正安2年(1300)、壬生寺において「大念佛会(だいねんぶつえ)」という法会を行いました。この時に上人は、拡声器とてない昔、群衆を前にして最もわかりやすい方法で仏の教えを説こうとしました。
そして、身ぶり手ぶりのパントマイム(無言劇)に仕組んだ持斎融通(じさいゆうづう)念佛を考えついたのです。これが壬生狂言の始まりと伝えられています。
せりふを用いない宗教劇
近世に入ると庶民大衆の娯楽としても発展し、本来の宗教劇のみならず、 能 や物語などから色々と新しく取材され、曲目やその数も変遷して現在上演されるものは、30曲であります。
しかし、一般の能狂言とは異なり、かね・太鼓・笛の囃子に合わせ、すべての演者が仮面をつけ、一切「せりふ」を用いず無言で演じられる壬生狂言の形は変わらず、娯楽的な演目の中にも勧善懲悪、因果応報の理を教える宗教劇としての性格を今日まで残しています。
今回演じられた節分とは?お寺のHPより
節分とは、本来、季節の分かれ目という意味で一年に四回もあるが、一般にいう
節分の日とは2月の立春の前日をいう。この日の夜、鬼が嫌うという豆を「福は内、
鬼は外」と唱えながらまいて、鬼を追い払うという習慣がある。
毎年2月の壬生寺節分会は、寺の最大行事で、十数万人もの参詣人で賑わうが、
この壬生狂言の『節分』を節分会に繰返し上演して、参詣人の厄除招福を祈願して
いる。
この狂言は「鬼 (病気、災厄や貧困など様々な不幸)を招く甘い誘惑に負けずに、
マメ(まじめに、こつこつ)に働くことによってこそ、福徳は得られるものである」
ことを教えた狂言で、後家が鬼を追っ払った後は、鬼の小槌や着物も消え失せ、後家
はそれが危険な誘惑であったと悟るのである。
解説本を買ったのですが、ひたすら無言で演じられていて素人の私にはさっぱりわかりませんでした。
無料で見ることができたので良かったのですが、お金を払っていたら後悔していたでしょう。
もう少し予習をしてくれば良かったと思いました。
壬生寺を出て、三条京阪のコインロッカーに朝預けた荷物を取ってから、四条烏丸付近のホテルに宿泊しました。
シングルの値段でダブルベッドでした。
去年の関西旅行のホテルはどこも悲惨でしたが、今回の旅行はどこも同じ値段でグレードアップしてくれてラッキーでした。