07 RACE FOR THE CURE T | 今日もTシャツ@TEXAS

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コレクションのTシャツのリスト作りも兼ねて毎日1枚づつにスポットをあてて掲載。Tシャツ掲載終了後はピンズのコレクションへと移行、続いて「貯まってしまったこんなもの」を掲載しつつ、日々の呟きを。→ほぼTシャツブログに戻りました。基本ランニング関連です。

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90年代前半、毎年11月の第1日曜は私にとってはNYCマラソンの日であった。
この日がNYCマラソン・デーという最後の年となったのは、ちょうど10年前。
96年にエントリーを手にしていたのを、妊娠で出走できず、権利を翌年に持ち越しした。持ち越した翌年も結局走れず、6ヶ月の息子を抱いて雨の沿道で夫と友人Fさんの応援をした。米国国内に住むとエントリーが取りにくいこともあり、その97年の沿道応援を最後にNYCマラソンの現場には行っていない。
それから10年、昨日のNYCで優勝したラドクリフは、ゴール後、10ヶ月の娘を抱き上げた。
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(AP通信の写真をお借りしています)
出産によるブランクや体の変化を見事にコントロールしてみせたラドクリフには拍手を贈りたい。

オースティンに来てからの11月の第1日曜日は、別の大会を毎年走る日になった。
それは、乳ガン撲滅運動のイベント「RACE FOR THE CURE」である。
大会はシリーズとして全米各地で行われるのだが、オーステインは毎年11月頭に開催なのである。

この5kmの大会、今年も22000人程が参加。
計時を行う「レース」としてのランニング部門がスタートしたあと、時間をずらしてのんびり走る人や歩く人たちのFUN RUN部門がスタート。こちらの参加者の方が多く、スタート時間から30分たってもまだのんびりスタートして歩いていく人たちが続く。
ガンを克服した人たち、自分達の命を祝福しながら、5kmをみんなで楽しむお祭り。
そういう連帯感からであろうか、この大会は、配られた参加Tシャツを着用して参加する人の率が驚くほど高い。

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これほど参加記念Tシャツの波が続く光景は、他の大会ではほとんどない。

乳ガンを克服した「サバイバー」の人たちは、ピンクのシャツ、ピンクの帽子を着用する。
ゴール地点では、サバイバーに手渡されるピンクのバラが用意され、
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ゴールしたサバイバーを祝福する。
写真の方の帽子に小さなピンクリボンが4つ付いているのは、この方が乳ガン治療後4年再発せずに生きているという意味。1年ごとにリボンをつけて祝うのである。

さてコレだけ大規模な大会、Tシャツの背中にプリントされているように、スポンサー企業が多い。
会場では、それらの企業がサンプルを配ったり、ちょっとしたゲームで粗品を渡したりしている。
実は「企業ロゴ入りグッズコレクター」でもある私には、コレも楽しみ。
配られた袋を手に、各ブースで粗品を袋に入れてもらって周るのは、なんだか「大人のハロウィーン(トリック・オア・トリート)」状態。
今年も、Tシャツやウォーターボトル、サーモ・コーヒーカップなどをゲット。
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で、会場を去る時にはこんな大袋を抱えた姿になったりする。

ただグッズを配っているだけの企業が多く、みんな貰って歩くのでその場の雰囲気でつい貰ってしまう人もいる。隣にいた人もボールペンなどを貰った直後に「こういうの結局使わないのよね」と言っていたのが聞こえた。
はたして宣伝効果はどのくらいあるのか。

その中で、サンプリング宣伝を一番効果的に行っていると思ったのがスーパーの「ターゲット」。

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ゴール地点でロゴ入りバンダナを配っていた。
会場内でバンダナを配っても、気が付かれなかったり、袋に入れられて持ち帰られる(もしかしたらそのまま捨てられる)だけの可能性が高い。が、このゴール地点で配られると、多くの人が受け取り汗をぬぐっていた。そしてそのまま手に持たれるので会場にはターゲットロゴが出回り目につく。

また、ターゲットはブースではなにやら袋を配っていて、貰ってみるとチョコレートが10個ほど入っていた。
あっ、なるほど。
連年、ハロウィーンで売れ残ったキャンディ類をターゲットは最終75%引きに値下げして売り切っていた。それが今年はそのセールに至らずほとんどキャンディは棚から消えていた。
捨て値で売って消費者が買えば、しばらくキャンディ類の売り上げに影響しかねない。ならば売れ残りを撤収して、このチャリティで配ってしまえば、寄付金額として計上できるに違いないから、その方がうまい処理の仕方かもしれない。

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次の予定の時間調整にのんびり過ごした後会場をあとにしたが、川辺の広い会場には、まだまだピンクの軍団の宴が続いていた。

秋の絶好の天気のオースティン。
生きているって嬉しいね、と2万人の人々と祝福しあった一日。

(そして大会翌日、今日5日は私の亡き父の誕生日なのだった。)