フランス人の彼ができてよかったと思うことは沢山あるが、その中でも最もよかったと感じることは、自分が「井の中の蛙」だということに「気が付かされた」ことである。残念ながら未だに井戸からは出られる気配はないが、少なくとも、自分が住んでいる場所、自分が所属しているものが井戸だったと認識したことである。

本やTV、映画や雑誌を見て、色んな知識を身につけた自分は、英語も操れるし、一端のインターナショナルな人間だ、くらいに思っていた。しかし、それはとんでもない勘違いだったのだ。

元々、視野が狭い方で、その時その時では、自分は結構広い視野があると勝手に思い込んでいたが、いつも、「ああ、また思い込んでた・・・」と後になって思い知らされたことが多かったのは認める。しかし、いくら何でも、自分が疑ってもみなかった「常識」が、世界の「非常識」だったなんてことには、自分では気付くことは出来なかった。

何を言いたいかというと、日本国内で日本人とだけ話している限り、(余程のジャーナリスト魂に燃えた記者か、海外経験が長く、海外の大学を出た日本人でもない限り)、この国で起こっている全てのことが、「真実ではない」、ということに気が付くことが出来ないのだ。

イラクの人質事件の時、TVの前で、「自衛隊を撤退させろ」と叫ぶ人質の家族の映像を何度も見た後に、そして「何度も勧告したにも拘わらず出国した馬鹿者達のために、職員は寝る暇もなく一生懸命働いている」という政府からのメッセージを聞いた後に、「人質の家族はなんて失敬な人たちなんだろう!!!」と思わなかっただろうか?私は思った。非常に強く思った。そして、強い憤りを感じた。そう。典型的な日本人の一人だ。

そうしたら、不思議なことに、世論は私と同じように、政府が正しくて、一生懸命なのに自衛隊撤退云々と政治に関わる要求を言われた可哀想な存在で、人質とその家族たちは、まるで人でなしのような言われようになるまでエスカレートしていった。マスコミは、彼らの過去の汚点と取れるような出来事を具に洗い出し、報道していった。そして、それらの報道を読む私たちは、「うわ、何て愚かな人たちなんだ!」と益々憤りを煽られていった。例外に漏れず、私も。

ヒステリックな感情を日本のマスコミの論調と同じようにエスカレートしていたある日、私は、TVに向かって、「本当にどうしようもない人たちだ!」と罵り、私の横で一緒にTVを見ている彼に、当然賛同すると思って、「ね?」と言ってみた。すると、彼の返答は私の思ったのとは全く正反対だったのである。彼は寧ろ私の態度に憤然として言い放った:「君が人質の家族だったら、全く同じ行動を取ると思わない? 家族のあの態度は、当然だし、政府が国民の命を守るも当然のことだよ! 人質が悪いなんて、日本人は馬鹿げてる!」私は一瞬、何のことだかわからなかった。え? あんな態度取られても何とも思わないの? と思ったのだ。日本政府に対していつも批判的で偏見のある視点しか持っていない海外プレスに感化されたのか? とか、色々なことが頭を駆け巡った。

しかし、一種のヒステリーに取り憑かれていた私は、「だって、危険だから行くなと20回以上も勧告されたのに、わざわざ行ったんだよ?! そんな言うことを聞かない人を私たちの税金を使って助けるの? そんなのは絶対に嫌だ! 税金を払っている立場である限り、使い道がこんなくだらないことだったら、腹が立つよ!」 これを聞いて、彼は更にいきり立った。

「君は随分冷たい人だね! そういう危険な地域だからこそ、困っている人たちが居て、助けが必要なんじゃないか。危険な地域にわざわざ出向いて行く日本人が居たっていうことに、俺なんかは寧ろ感心したっていうのに。日本人も随分頑張る人がいるじゃないか、って尊敬した位だよ。大体、自衛隊が派遣されたこと自体がおかしいのに、それについて議論もせず、焦点もあてないくせに、そのせいで人質になった人を責めるのは、焦点がずれてる。本当に責められるべきは、『日本人が人質に取られるようになってしまう』状態を作り出した政府じゃないか!」「政府っていうのは、国民を守る義務があるんだ。当然のことなんだよ。それを、『職員が寝ないで大変な思いをしている』って、当たり前じゃないか。人質が死んだらどうするんだ!」

そこまで言われて、私は少しトーンダウンした。確かに・・・。表面的な事象に反応して憤ってきたが、そういえば、自衛隊の派遣についての議論はどこに行った? 私は、「何か」の演出によって作り出された表面的な出来事に振り回され、肝心なことに目を向けることさえできなくなっていたのだ。

寧ろ、その「何か」に進んで巻き込まれ、ヒステリー集団の一員になって、まるで中学生のいじめに加担するが如く、本当の弱者を足蹴にして、さらに惨めな状況へ追い込む輩に成り果てていたのだ。しかし、気付いたその場で悔い改めるには余りに体裁が悪かったので、翌日になって初めて私は彼に告白した。私は日本のマスコミに踊らされた一人だった、と。

後日、イラクで実際に人質の方がどんな活動をしていたのか、というビデオを見た。自らの過去を振り返り、同じ経験をさせてはいけないという気概から、イラクのストリート・チルドレンを更正させる、という彼女の真剣な姿を見た時、彼女の信念に感動し、そして自分の浅はかな考えが恥ずかしくて涙を流した。面識があるわけでもないのに、心の底から、人質の方や家族の方たちに対して申し訳ないと思った。

本当の民主主義の国から来た人たちは、常に「上」を監視し、間違った行為をしていたら反抗する、ということが身に染み付いている。「井戸」の外に出て物を見、物を言うことが出来る人たちなのだ。彼らのやり方全てが正しいとは思わないし、全て真似する必要もないと思うが、少なくとも、「自分の目」で見て、「自分の言葉」で伝えることが出来る環境にあるかどうか、という点で、大きなギャップがあるのは事実である。少なくとも、「民主主義」を名乗りたいのであれば、「自分の目」で見て、「自分の言葉」で伝えることが出来る環境があるのは最低限の前提である。

フランスの文豪、ゾラ が、「ドレフュス事件 」で、世論に反して真実を追究し、軍部の偽証を糾弾した結果、フランスの自由主義が保たれる結果になった。ゾラのようなリスクを恐れず立ち向かう人々が居たことを、フランス人は永劫誇りに思うことだろう。

私の住む「井戸」の中ではどうだろう? 命を賭して取材をするような気鋭のジャーナリストの方が大勢居ることを知っているが、それとは対照的に、日本マスコミ「臆病」の構造(Benjamin Fulford (原著)) 」で述べられているようなことが罷り通っている。残念ながら、私は"Chicken=臆病者"なので、「井戸」の中に居る限りは、「真実」を伝えるリスクを負う気は全くない。しかし、「井戸」を出る機会があったら・・・? Chickenである自分を脱ぎ捨て、"good layer"になりたいと願っている自分を、最近意識するようになっている。

A lie gets halfway around the world before the truth has a chance to get its pants on.
Winston Churchill
(この日記は年明けに書かれたもの)
年が明けて、2005年。今年も仲良くやっていこうと思っている矢先の昨日、割と大きな喧嘩をした。初詣もしていないのに、初喧嘩である。夜中まで遊んでいたので、終電がなくなり、家まで約20分、寒い寒い帰路についたのだが、こんな時に限って大喧嘩した。

原因はそんなに大したことがないのだが、彼の行為が自分の琴線に触れることだったため、私が深くショックを受け、彼に怒り交じりに言い返し、彼はそんなリアクションをとった私に対し、キレた。彼は軽く流して欲しいトピックだったらしいが、私にとっては非常に重要なトピックだっただけに、深刻に受け留め、真剣に返してしまったのだった。

彼は怒って早足になり、私を省みることなく、家へと急いだ。私はそんな彼の背中を哀しみとショックでいっぱいになった目で追いながら、足は家に向かうことができず、暗い小道でただ佇むしかなかった。佇むこと30分程だろうか、既に帰宅している彼から電話があり、ホテルに泊まるのだか実家に帰るのだか知らないが、連絡をしなさい、と言われた。

結局、ポロポロと涙を流しながら私は帰宅し、凍てついた手足をベッドの中で温めながら、彼とあれやこれやと話した。彼は私の強い意思と口調に呆れていたが、お互い、冷静になって話すうちに、お互いの思考の論理と発言の理由がわかってきて、歩み寄ることが出来た。

和解はできたが、心には哀しい穴がまだ少し空いているような感じのまま、眠りについた。

今朝、目が覚めた時、彼の第一声は謝罪の言葉だった。「あんな言い方をする必要はなかった。外で待たせてしまってごめんね。」

喧嘩をした後、お互いの気持ちをよく話し合ってから翌朝起きると、とても気分がいい。
自分の思ったことは、100%相手に言う必要はないが、言うことで相手が傷つくこともある。けれど、傷つくからと言って、心の中で思っているくせに、表面では嘘をついて取り繕われるのは一番嫌なことだ。私は彼がはっきり言ってくれてよかったと思っているし、その発言に対して私がどういう感情を抱いたのか、知ってもらえたこともよかったと思う。

心を裸にして、はっきりと自分の感情をぶつけることが出来て、そして相手もぶつかってくる、そういう関係を築けていることが、自分にとってはすごく満足だ。これからもたくさん喧嘩をすると思うけど、偽りのない感情をぶつけ合う行為は、より、相手への敬意と愛情の深まりに繋がっていくと思っている。
語学を学ぶためにその国の人と付き合う、というのは、非常に効率的かつ実践的な方法だと思う。

その国の実用的な表現を学べるし、常に相手とその言語を話すのだから、時を共に過ごせば過ごすほど、その言語は上手くなっていくのは当然である。英語が上手くなりたい人が、英語のネイティブ・スピーカーと付き合う、なんていう話はあまりによく聞くので耳にタコが出来るほどだ。

しかし、考えなくてはならない。誰かと付き合う時、それが最大の目的だったとしたら、目的が完遂されたらどうなるのか?

英語がネイティブ並に上手くなって、自分がたまたま結婚適齢期だったからそのネイティブ・スピーカーと結婚してみたりする。何年も付き合っているから、もちろん気心も知れているし、一緒に楽しく過ごす方法も知っている。しかし、付き合い始めていた頃とは何かが違っている筈だ。

何が? 一緒にいることのモチベーションが違うのだ。「彼(彼女)との愛情関係を深め、互いを尊重し、心豊かな共同生活を送っていく」という目的に切り替えられたら別だが、そもそも当初の優先順位が、「彼(彼女)から語学(或いは文化)を習得すること」だったりすると、それを学んだ後は、別にその同じ人と一緒にいる必要がなくなるわけだ。

そんな馬鹿げた理由で、結婚数年後に分かれるフランス人男性×日本人女性のカップルの話を多く聞く。(数値で出せないので、"多い"というのはあまりに曖昧ではあるが・・・)当然、この場合、フランス語を習得した日本人女性が、"先生"に連れられてフランスに行き、自立の手段を得て、"先生"の許を去っていく、というケースばかりである。

日本人の女性は、欧米や中国などに比べると、社会的地位が低いので、日本以外の国で自立していけるようになることに生きがいを見出すために、外国語を習得する、ということはある意味賢いかも知れない。しかし、余りに手段に走っていて、権謀術数的な行為にさえ見える。男性を踏み台にしてでも頑張っていく、という姿には、同性としては、ある意味頑張って欲しいという気もするが、言葉を悪く言えば、自ら投資をするわけでもなく、単に寄生虫みたいなことをしているわけで、手放しには賛同できない。

語学なんて、外国人の彼氏・彼女を作らなくたって、やろうと思えばいくらでも習得できるのだ。習得してから付き合ったっていい。自分が日本にいる限りは、日本語で話し続けていいではないか? 説得力がないと思われることを恐れて言えば、私は英語のネイティブ・スピーカーと付き合ったこともなく、海外在住経験もないが、TOEIC 900後半を取れるし、会話だって普通以上には話せる。

しかし、日本に住んでいて日本語を勉強したいと思っている人には、日本語で話す。英語で話す必要はないのだ。彼らはわざわざ日本に来るという投資をしてまで勉強しようとしている人たちなのだ。何でその人たちから語学を学ぶ必要があるだろう? 本当に語学を学びたいなら、自分こそその国に行って勉強すればいい。その国で寄生虫するならある意味仕方がないと思う。それだけの投資をしているから。

「ダーリンは外国人」 の作者の方が、ご主人と日本語で話をしている、というのを読んだ時、微笑ましく感じた。このご夫婦は、語学という最低レベルの目的は既にクリアした上で、精神的なつながりを深めていけてるんだな~、と思ったから。目下、作者の方は英語を勉強されているとのことだが、既にコミュニケーションが成り立っている上で別の言語が加わったとしても、何ら関係に影響はないだろう。絶対に語学習得を人間関係の目的にはしたくない。これは自戒であり、信条である。
フランス人は、お金をきちんと貯める。若いうちから、老後のことをきちんと考えているからだ。
フランス料理が高いから、みんな金持ちでバブリーな生活を送っているなんて思っていないだろうか?実際そういう人もいるが、それはほんの一握りだ。

フランス人に限らず、ヨーロッパ人は全般的にそうだと思うが、物事を長い目で見る傾向にあると思う。別に、気長、という意味ではなく、行動を起こす時に、それが普遍的に論理性がある行動かどうかを吟味しているように見える。別に、毎回毎回というわけではないが、かなり頻繁に吟味している姿を見る。そういう吟味を経た上で創出される方法論は、一時的な処方箋ではなく、結構長く続くのだ。ナポレオン法典みたいに。

日本人が何も考えずに定型化している物事について、うちのダーリンやその友達は、皆、嘲笑の混じった言い方で揶揄している。例えば、スーパーに行った時に、牛乳パックやオレンジジュースのパックを買うと、「ストローは要りますか?」と必ず聞かれることについて、「ストローが欲しいと言っている人を見たことがないし、大体、あの高さのパックにストローを入れたら中に落ちるよ。何で、ほんの一部の人しか要らないようなことをわざわざ聞いてくるんだろう?」と言ったように、確かによくよく考えたら必要のないことなのに、何を恐れてか定型化してしまいがちである。

自分のまわりで起こる事象の根源的な理由とそれに基づいて起こる事象との因果関係を、論理的な視点から常に見ようとしているのが、フランス人である。議論好きな人々と言われるのもその所以である。彼らは、物事を、単純に受け流すことなど出来ないのだ。だから、時には必要以上に懐疑的になり、結果的には疑う必要もなかったことまで疑って見てたりするのが損な気もするが、「自分の頭で考える力」が日々、確実に鍛えられている。政治家の言うことに従って「右向け右」になってしまうどこかの子羊たちとは、そこが違う。

こういう長い目(普遍的な論理性)を持った彼らが、楽しい老後を過ごすことが出来るというのは、一つのその論理性の正しさの証明でもあるような気がする。しかし、絶対にそういう論理性が通じないケースもしばしばあることを付け加えなければならない。パリの街中に散らばっている犬の糞のことは、彼らのまた別の特性に起因しているせいだ、ととりあえず言っておきましょう。
私のダーリンはフランス人である。パリ生まれのパリ育ち。
ここまで書くと、恐らく日本人の90%以上の人が、次のいずれかの問いかけをしたくなるだろう。

「会話は何語でしてるの?フランス語?英語?」
「フランス語が上手くなるし、よかったね」
「フランスってやっぱりワインとチーズの国だから、結構食べたり飲んだりする機会があるんでしょう?家でチーズ・フォンデュとか?」
「フランス料理を作ってあげたりするの?」
「フランス人男性って、ロマンチストが多そうだよね。「ジュテーム」とかって言われるんでしょう?」
「フランス人男性って女好きだしモテるから大変なんでしょう?」
等など・・・上記が典型的な質問で、実際興味深々の人たちに幾度となく訊かれた質問だが、残念ながら、全て"Non"である。

私自身も、ダーリンと付き合うことがなければ、同じような質問を投げかけていたかもしれない。6年も仏系企業で働いていても、である。現在、愛すべきダーリンと共同生活を始めたが、彼の御蔭で、随分色んなことに気付かされたと思う。そして、前提として言っておくと、私の知っているフランス人たちは、恐らく多くの日本人が信じている(信じ込まされている)いわゆる「フランス人像」とは、かけ離れた人々である。彼らは日本語が非常に達者で、異文化を客観的に、時には冷徹なまでの批判的視点を持ちながら、異文化を尊重し、自らを根本的には変化させることなく社会に溶け込める人たちである。エリートはエリートとしてのプライドがあるが、決して尊大ではない。

何でこんなことを書き始めることにしようかと思ったのも、理由はここにある。結局、(観光とショッピングのための海外旅行は抜きにして)日本という国から出ず、鎖国以降根強く取り憑いている「日本人っぽく見える人以下=外国人」という大雑把なカテゴリーに毛が生えた程度の、表層的な理解しかしてこようとしなかった一般的な日本人たちには、実際の"外国人"の感情や思考は理解することが出来ない、ということを実感したためである。

残念なことに、私自身も、想像の域でしかフランス人という人々を見てこなかった。「文化人ぶってて気難しそう」とか、「フランス語を話さない人をバカにしそう」とか、「自分の国に自信を持ちすぎてて、日本人を小馬鹿にしてそう(まあ、馬鹿にされているというのは、ある意味事実だが。。。)」とか、実際に話をしたり、友達にもなったことがないくせに、先入観によって、自分で勝手に納得していた。こういった全ての先入観を持つことは、全くの杞憂であり、自分の世界を狭める行為である。

少しでも、そういう先入観を持つ人をなくし、フランス人の生き方から学ぶべきだと私が感じたことを世の中にシェアできればと思い、書き綴ることにした。そうは言っても、私の生きる世界は非常に狭い世界である。視点として、もっとこんな考え方も世の中にはある、という一家言をお持ちの方がいれば、忌憚なくご指摘をいただき、議論することができれば幸いである。