私は19歳で上京し、ラジオパーソナリティからキャリアをスタートしました。

映画デビューすることが出来たのは、それから2年後のことです。

演技力という数値化できない才能や実力は簡単には、証明出来ない。


最初の役を掴むのが一番難しいです。


ほとんどの俳優の卵たちは、デビューすることが出来ずに諦め去っていく。


チャンスが来る瞬間とは不思議なもので

私は、アルバイト先だったバーで、皿洗いをしているところをプロデューサーで制作会社社長のW.M氏と、デビュー作の映画監督にスカウトされました。


顔は、まぁまぁ悪くない。

歌ってみて、踊ってみて、と言われ

誰だか分からない人達にも関わらず、自分は表現者なのだから、と必死でパフォーマンスを見せました。


結果、次の映画に出してみようか、という話になり、所属事務所に預かりというカタチで籍を置かせてもらった...


私の女優としてのキャリアも、女の子としての運命も...その後の私を創る全てが


決まった瞬間でした。


上京してから、オーディションを受け、毎日映画を見て本を読み、ダイエットと肌づくり、ファッションセンスを磨きアルバイトをしながら


女の子らしく恋愛もしていました。


ただ、それは恋で、愛ではなかったと思います。


私が人生で初めて愛した人、それはデビュー作の監督でした。


知性、感性、優しい物腰、自分の絵を貫く頑固さも、少し天然ボケで、猿のぬいぐるみをみどり色だから河童だと言い張ったり。


撮影後に。私から想いを伝えて、3年間

彼と一緒にいました。


ただ、監督と付き合っているという色がつかない方が私のためだ、と。

私たちは隠れてお付き合いをしていました。


そして。


スカウトした当時はあどけなさと世間知らずで興味がなかった私が

いい女になってきた、と。

私をスカウトしたもう1人、プロデューサーで事務所の社長でもあるW.M氏から口説かれ始め


オーディションだと偽られ、ホテルで襲われる事件が起きました。


泣きながら彼に電話をすると、ホテルをとり新幹線に乗り、迎えに来てくれた。


「酷いはなしだなぁ。事務所を辞めた方が良い」


私だけ?アテもないのに?


彼もまた、W.M氏と監督として給料制で専属契約を結んでいました。


結局、私は事務所を辞め、昔お世話になったマネージャーさんに会いにレコーディングスタジオに遊びに行ったところを


今度は音楽系の事務所の別のマネージャーにスカウトされ、烏龍舎という事務所に所属することになりました。


自分の彼女だと言ってもらうことも、助けてもらうこともなかった。ただ話を聞く...私が愛した人は、監督ゆえに傍観者になってしまった。


新しい事務所が決まると、もう隠す必要はない、公表しよう、と言い始めた。


私は断りました。


裏切られた、見捨てられた、助けても守ってもくれなかった。


どうしてもその想いが、愛情を上回り、不信感にかわり...私たちは壊れてしまいました。


新人監督だった彼に、それが出来ないことは分かっていたし、彼もまた、撮影した映画の権利を100%そいつに握られていた。


私たちは潰された。


個々は生き残り、私は女優として主演やCM、アーティストとしてap bank fesや、海外ツアーにも出る事が出来た。後悔はない。


ただ、

性被害に合ったのは私だけだった。

権力でキャリアを潰す、と脅されたのも、事務所を辞めることになったのも、あいつは俺の女だから、と業界で侮辱と屈辱でしかない評判を吹聴されたのも。


その後、W.M氏が自滅したのは業界の人なら誰でも知っています。


私は誰にも助けを求めない人間になりました。

別れを切り出し、荷物をまとめて出て行った時、彼は泣いていました。


負けた...


それは、今もかすかに、私の中に残っています。


彼は今も、第一線で監督として活躍しています。


日本映画界で。


この事件をどう見ているか...


酷いはなしだなぁ、で。


終わらせない人になっていてほしいです。


少なくとも私は違う。


私は告発し、そしてそれを支える人たちに勇気をいただきました。


私に出来ること。


それは憐れむでも嘆くでもなく


行動し続けることです。


勇気をくれた女の子たち、早坂伸さん、港岳彦さんに。心から感謝します。


ありがとう。