【古代鴨氏物語】鳥見の長髄彦 | 東風友春ブログ

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神武東征の主役はもちろん神武天皇であるが、その行方に立ち塞がった宿敵が「長髄彦」である。

長髄彦は、河内の草香邑にて五瀬命に痛手を負わせて撃退し、熊野から迂回して宇陀から大和に侵入した皇軍の前に再び現れている。

長髄彦は日本史上初めて天皇に抵抗した人物として悪名高いが、記紀を読めば、神武東征以前の大和及び河内に饒速日命を主とした連合国家のようなものが存在し、長髄彦はそれら諸部族の長もしくは軍事担当者のような姿が浮かび上がってくる。

 

 

從其國上行之時、經浪速之渡而、泊青雲之白肩津。此時、登美能那賀須泥毘古、興軍待向以戰、爾取所入御船之楯而下立。故號其地謂楯津、於今者云日下之蓼津也。

 

長髄彦は、古事記では「登美の那賀須泥毘古」「登美毘古」の名で呼ばれ、この「登美(とみ)とは磐余彦磯城兄弟と同じく、彼の出身地もしくは本拠地を示しているらしい。

登美の地は、現在の生駒市北東部から奈良市西部にかけて流れている「富雄川」流域を指すそうだ。

富雄川は、奈良大阪の県境に聳える龍王山(現在は昭和三九年に完成した高山溜池を水源地としている)から南流し、大和郡山市を経て法隆寺の南で大和川に合流する。

この川はかつて「鳥見川」または「鳥見小河」と呼ばれ、今では「富小河」から富雄川へと変化している。

 

 

富雄川流域は、中世の文献に「鳥見庄」あるいは「鳥見谷」と見え、続日本紀の和銅七年(七一四)の条には「登美箭田二郷百姓」とあることから、奈良時代は「鳥見郷」と呼ばれていたようだ。

さらに神名帳添下郡に記載されている「登彌神社」は、現在富雄川下流の奈良市石木町に鎮座している通称「木嶋明神」に比定されている。

このため「添下郡鳥見郷」の範囲は富雄川に沿って、一般的には生駒市高山町から奈良市石木町に及ぶものと考えられている。

 

 

しかし、「大和志料」は「元来鳥見の本処は南田原山高山上村にして河内の私市に越ゆる坂路即ち磐船越に沿へる山間の部分の惣称なり」として、元来の鳥見の地とは生駒市南田原町・高山町・上町あたりだと述べているが、これは北端と西端を大阪府との県境に接する奈良県北西隅(生駒市北部)の山間部及び丘陵地に横たわる地域である。

 

長髄、是邑之本號焉。因亦以爲人名、及皇軍之得鵄瑞也。時人仍號鵄邑、今云鳥見是訛也。

 

日本紀によると、長髄彦「長髄」とはもともと村の名前で、その村は金色霊鵄の出現によって「鵄邑」と名を変え、その後「鳥見」になったとある。

この鳥見が後の鳥見郷であり、鳥見の前身の鵄邑は生駒市北部にあったとする考えから、昭和十五年、生駒市上町の富雄川の川辺に「神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑」は建てられた。

 

 

この顕彰碑の近くには「長弓寺」という寺院があって、大和志料によると旧事紀「天羽弓矢、羽々矢、復た神衣帯手貫の三物を登美白庭邑に葬し斂めて、此を以て墓者と為す」とある「登美白庭邑」とは当地のことで、御炊屋姫饒速日命の形見を埋めて墓所としたのは長弓寺東方の「真弓塚」だと述べている。

また、富雄川流域と西の天野川流域を隔てる丘陵地に、昭和に宅地開発された「白庭台」という住宅地がある。

この白庭台には「長髄彦本拠」「鳥見白庭山」と刻まれた石碑が存在するが、この地の字北倭村白谷が白庭を連想させると言う理由により、昭和十五年の鵄邑顕彰碑建立に際して地元有志により建てられたもので、どちらの石碑も後世の解釈や推測に基づくものである。

 

 

しかしながら、白庭台の西の谷を北流する「天野川」の川筋(国道一六八号線)は、かつて「上津鳥見路」と称したと大和志料にあり、流れに沿って大阪府交野市に入ると、そこに饒速日命の降臨伝説が残る「磐船神社」が鎮座している。

ここは大和と河内が接する土地で、北の磐船神社だけでなく、西に生駒山脈を越えれば石切劔箭神社(東大阪市東石切町)がある。

 

 

また、富雄川下流の大和郡山市矢田町には櫛玉饒速日命を祭神とする矢田坐久志玉比古神社が鎮座している。

このようにこの地はどちらかと言うと饒速日命ゆかりの土地であって、長髄彦に関して何らかの痕跡や伝承が残っている訳ではない。

ただ、万葉集註釈釈日本紀の「伊勢國風土記逸文」によると、長髄彦を「膽駒(生駒の)長髓」と表現しているので、やはり長髄彦はこの地に縁のある人物だったようだ。

 

天日別命、神倭磐余彦天皇、自彼西宮征此東州之時、隨天皇、到紀伊国熊野村、于時隨金鳥導入中州而到菟田下縣、天皇勅大部日臣命曰、逆黨膽駒長髓、宜早征罸。

 

なるほど、ここから西の生駒山脈を越えれば河内国草香邑は直ぐなので、長髄彦が皇軍来襲の報を受けて救援に駆けつけるのも容易だったろう。


ところで、鵄邑をこの地に比定する見解は、日本紀に神武天皇が長髄彦と対峙したのは兄磯城を敗死させた後とする記述の順序から、皇軍は既に宇陀から磯城地方を制圧しており、長髄彦との対決は磯城以外の大和平野の何処かで行われたという推測によるものだ。

しかし、神武東征の決戦が行われたという伝説もこの地には無く、もし仮にそうだとしたら、金鵄の出現地が近くにないとおかしい。

 

 

確かに、生駒市上町には金鵄が現れたとする「鵄山」があり、山上には「金鵄発祥の地」と刻まれた石碑が立つが、これについて神武天皇聖蹟調査報告「金鵄の瑞の現れた地点については、近年北倭村大字上のとび山を挙げるものもあるが、地名に基く憶説に過ぎない」と一蹴している。

結局のところ、同書では鵄邑を当地に比定したものの、金鵄の出現地に関しては言及を避けている。


ちなみに和名抄には、大和国添下郡の四郷を「村國、沙紀、矢田、鳥貝」としており、この「鳥貝」は大和志料によれば「これを流布本には鳥貝郷に作る。蓋し伝写の誤なり」として「鳥見郷」の誤写だと述べているが、和名抄高山寺本などはわざわざ「止利加比」との振りを入れており、鳥貝を「鳥養部」に関連付ける説もあるにはある。

例えば、長弓寺の縁起では「真弓山長弓寺者、聖武天皇之勅願天平年中之開基也。当時宇多郡有怪鳥、数来此山、食荒田穀野草損害頗多。郷党黎民相與愁之、遂達天聞甚悩、宸襟廼勅置鳥見」とあり、怪鳥の食害を防ぐ目的で「鳥見」という職をこの地に置いたと記している。

 

 

率直なところ、トミに「鳥見」の当て字を付したのは存外この辺の事情によるもので、金鵄の出現とは関係なく、元からこの地は「トミ」と言う地名だったかもしれない。