【古代賀茂氏の足跡】乙訓郡の久我神社 | 東風友春ブログ

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賀茂社伝承において、建角身命は「大倭の葛城山の峰」から「山代の国の岡田の賀茂」に遷り、山代河の隨に下って「葛野河と賀茂河との会う所」に至り、そこから「久我国の北の山基」に移動しました。

葛野河は現在の桂川、賀茂河は鴨川なので、葛野河と賀茂河との会う所は、桂川と鴨川の合流地になるのですが、今でも桂川の西岸に「京都市伏見区久我」とあって、「久我」という地名が残ります。

前回、延喜式神名帳には、山城国愛宕郡に久我神社、乙訓郡に久何神社が記載されていると説明しました。

乙訓郡の「久何神社」は、現在「京都市伏見区久我」にある久我神社(以下、久我社)に比定されています。

 

 

 

久我神社

所在地/京都市伏見区久我

御祭神/建角身神・玉依比売命神・別雷神

例祭/四月第一日曜日(もとは四月三日)

当社は八世紀末、平安遷都に先立ち、桓武天皇が山背長岡に遷都された延暦三年(784)頃、王城の艮角の守護神として御鎮座になったものと伝えられる由緒深い延喜式内社である。久何神社とも号する。別雷命・建角身命・玉依比売命の三柱を御祭神とし賀茂両社と同体であり、古来鴨森大明神とも号す。

【久我神社社頭案内板】より

 

久我社は「鴨森大明神」「森大明神」とも呼ばれ、神社の周囲は宅地化の波が押し寄せているが、社叢の森は今尚深く鬱蒼としており、まさに「森の大明神」の名に相応しい。

現在の御祭神は、建角身命・玉依姫命・別雷命の三柱。

上賀茂下鴨の両社祭神が、一所になってお祀りされているような神社です。

久我社の旧社格は村社

社伝によると、久我社の創建を長岡京遷都の頃としています。

「鳥邑県纂書」には、久我社について「往古は乙訓郡に坐す、桓武遷都時下鴨に遷す」とあるのを踏まえると、当地は下鴨に遷座した久我社にとって元宮だったのかもしれません。

 

 

久我社 三座 若雷、建角身、玉依姫

(中略)延喜式神名帳に云わく、山背国乙訓郡の久我神社、大月次、新嘗。秘伝神書抄に曰く、桓武天皇の長岡都において帝城の艮角の鎮守、建角身命是れなり。貞観式曰く、元年正月正六位勲六等久我神に授く云々。鴨森大明神とは久我神社なり、延喜式神名帳に見ゆ。賀茂山口之神と同躰なり、神書抄及神祇宝典に見ゆ。

【老諺集】「中世久我家と久我家領荘園」老諺集翻刻より

 

老諺集とは、地元の旧家に伝わる地誌で、いつ頃書かれたかは残念ながら不明です。

老諺集には、久我社が「賀茂山口の神と同体なり」とされており、延喜式神名帳の山城国愛宕郡にある「賀茂山口神社」と関係ある事かと思いますが、賀茂山口社は現在行方不明になっており、詳しい理由や内容は不明。

また、老諺集によると、久我社では「葵祭り」という祭礼が行われていたようです。

 

祭 四月上之巳日、葵祭と申し伝える也。上古、御旅所に出御あり。七日の間なり。(中略)御旅所旧跡の事 森の西方三丁境内、田地に成る。而して字を夫婦木と謂う。

【老諺集】「中世久我家と久我家領荘園」老諺集翻刻より

 

式内社調査報告によると、久我社の例祭の他に「五月第一日曜日神幸祭、五月第二日曜日還幸祭(本来は巳の日に行われていた)」と書かれてあるので、おそらくこの新暦五月の祭りが、かつては「葵祭り」と呼ばれていたのだろう。

ただし、老諺集によると「夫婦木」にあったとされる昔の御旅所は田地になったとあり、また社頭案内板には「私祭 五月上旬」とされていて、今も旧態のまま還幸祭が行われているのか、知ることができなかった。

 

 

乙訓郡久我神社は長岡京遷都時(784)に創建され、平安京遷都時(794)に伴って愛宕郡に遷座したのなら、どうして神名帳に二カ所の久我社が記載されていて、今も当地に久我社が残されているのでしょうか。

もちろん遷座と言っても、単に久我社から神霊を勧請されただけかもしれないし、仮に御神体が遷されたとしても、旧祠が残される場合も多いです。

 

一説には当社は往古、山背久我国造として、北山城一帯に蟠踞した久我氏の祖神、興我萬代継神(三代実録)を祀った、本市における最も古い神社の一つであり、久我氏の衰頽後、賀茂氏がこれに代わってその始神を祀ったのではないか。

【久我神社略史】「全国神社祭祀祭礼総合調査」神社本庁(1995)より

 

ちなみに「日本三代実録」では「輿我萬代継神(こがよろずよつぐのかみ)」の神名が登場します。

 

貞観八年(866)八月十四日 山城国正六位上輿我萬代継神に従五位下を授く

貞観十六年(874)潤四月七日 山城国従五位下輿我万代継神に従五位上を授く

【日本三代実録】(901)より

 

もしかすると、輿我萬代継神と久我社とは関係があって、建角身神が乙訓から愛宕に遷座した後、当地では輿我萬代継神を祭神としてお祀りしたのかもしれません。

しかし、久我社の現在の祭神が、変わらず建角身神であることから、輿我萬代継神と当社とは全く関係ないかもしれません。

式内社調査報告でも、輿我萬代継神について分かっているのは山城国の神というだけで、「輿我萬代継神は、或いは当社のことかもわからない」と疑問視しています。

 

 

さて最後に、この地に賀茂社伝承に関連する伝説が残されている事は、注目に値します。

 

興味あることとして当地方の西の方(乙訓坐火雷神)から丹塗矢が当社(玉依比売命)にとんできて、やがて別雷神が生まれられたとも、此の里では伝承されている。

【全国神社祭祀祭礼総合調査】神社本庁(1995)より

 

この伝承は、久我社が、賀茂氏の氏神を奉祀するために創建された、彼らにとって大切な神社であることを示すと共に、もしかすると賀茂社伝承(丹塗矢伝説)が、この地で創作された事をも意味するのではないでしょうか。