東京で連続の観劇を終え、残念ながらもう私の観劇予定は
来年の名古屋公演を残すのみ
今週も本当はもっともっと観たかった・・・
しかし発想を変えれば 今までのようにスッキリと楽しかった~
と完結する芝居ではなかったがゆえ 自宅に戻ったあとも
レミングの舞台は断片的ながらも頭から場面が去らず自分なりに
咀嚼し一晩寝るごとに熟成が進む発酵食品のように私の中で
生きています。
これが今日も明日も観劇となると休ませる時間がないために
パンではないですが・・・発酵が足りずにうまく膨らまないかも。
レミングでは束縛を壁というキーワードで表しているように
思えましたが、壁がなければまさに解放され、自由で気持ちが
よいのか・・・どうもそのようには感じませんでした。
自由というのは自分に確固たる則がないとかえって自由が
ゆえの不自由さとでもいうものが生まれると思うのです。
その苦しみを柄本時生さん扮するジロに私は見出しました。
実際の舞台のセットや人の動きはどのようなものだったか
抜粋してみましょう。
最初は7拍子の少し馴染みのない拍子で足を踏み鳴らし
1930年代の外套と帽子をかぶった黒っぽい集団が左右に
行き来する場面。
そこに 一人台詞をしゃべる人物が出てきますが
その台詞は日本語としては成り立っていますが芝居の内容
としてはとりたてて意味はなく都市の混沌を表しているようです。
そこにかなり小柄な女性が走ってきて去り、また現れる。
この女性は他の場面でも同じように舞台を横切り去っていく。
何か・・・これは観たことがある。 そう、あのキリコの絵。
「通りの神秘と憂鬱 / Melancholy and Mystery of a Street」
不安になるけれど既視感があって目が離せない・・・そんな空気が
今回の舞台の前半を覆っています。
中盤では黒髪の少女がささやくような声で歌を歌う。
それが私には横溝正史の「悪魔の手毬唄」の映画で岸恵子が
腰をかがめて歌いながら峠を歩いていく場面が思い出され
ゾっとしました。でもどこか郷愁や子供の頃の怖いという気持ちが
不思議と懐かしい・・・これもある種の既視感を覚えます。
その少女が手に不思議なオブジェのようなものを持っています。
それがだまし絵で有名なエッシャーの透視画法で造られた立方体
なのです。
エッシャーは無限を有限の中に閉じ込めるという思想で絵を描いて
いたと言われています。
まさに今回の寺山修司の言いたかったことなのかしら・・・
と感じました。
有限であるが無限でもある。 都市の混沌や母子の絶ちきれない
捻じれた関係などを内包している自分の認識する世界は事実なのか
真実なのか、無限か有限か・・・
というような頭がグルグルするようなことを突きつけてくるのです。
最後にタロが「母さん、そうなんだね」と・・・遥か上の空を見上げるか
のように何か到達したような顔つきでラストへ向かいます。
甘いマスクの溝端淳平君の綺麗な顔が実に輝いて・・・
壮大なマザコン物語としてこの舞台を観ると今まで舞台上の
不条理ともいえる摩訶不思議な場面のすべてが束縛ではなく
自由としての形だったのではないかとすら思えてくるのです。
下世話な例えですが 痛い痛いマッサージを受けて終わった時の
開放感みたいな・・・もう少し上等に言えば苦しい登山で散々な目に
あったけれど頂上に到達したら青空で今までのすべての苦しみが
肯定できるような気持ちになるような・・・
そんな舞台でした。 実に面白い。
霧矢大夢さんは私にとっては彼女自身を崇めてファンという気持ち
よりも私の世界を拡げてくれる道しるべのような女神に思えます。
本当に退団後の彼女の舞台の幅の広さを思うと・・・
つくづく素晴らしい舞台人だと思うのです。
