大学に入学したばかりのある日、エリスは大学の担当教授に呼び出された。日本語学科の主任教授である。彼は画家として留学していた日本人の祖父と画学生だった祖母の間に生まれた母に小さい頃から日本語、英語の両方を使うようにしつけられ、今は大学で日本語を教える日々である。日本語をあやつることは何ら苦ではないが、彼も母もアメリカで育ちアメリカ人として生きてきた。彼にとって日本語というのは一種の道具のような感覚であった。しかしエリスのとっての日本語は恭太郎と自分を繋ぐ心の交流そのものであって日本語を理解しているその能力を利用されるとはその時は思いもよらず教授の部屋のドアをノックしたのだった。
「お入り」と教授は入室を許可し、エリスは試験の時期でもないのに何だろう?と教授の言葉を待った。
「急に呼び出してしまってすまなかったが、今日は君にお願いがあって来てもらったのだ。実はこの話は先にニューヨーク大学で教鞭を取っておられるお父上にもすでに話をして許可をもらっているから、お願いというよりも伝令と言ったほうが正確かも知れないな」とエリスに教授室の長椅子に腰掛けるよう促して話し始めた。
「現在、我が国の軍は日本と戦争中であることはご承知の通りだ。そして戦局は我が国に分があるとはいえなかなか日本の反撃も凄まじい。特にイソロク・ヤマモトの率いる海軍との戦闘でかなり疲弊してきているとのことだ。そこで海軍を徹底的にマークして撃墜する計画が持ち上がっており、日本語で交わされる会話を傍受できる人材を軍では重用している。そこでこの日本語学科を有する私たちに大学にも打診がきたのだ。
エリス、どうだろう?君ほどの日本語の能力であれば十分にその役目を果たせると思うが・・・。またお父上から日本に手紙をやり取りしている男性がいるとも聞いている。その男からも何か情報をうまく引き出すことはできないかね?」
エリスは話を聞きながら血の気が引いていくのがわかった。しかし教授が言っていることは何もこの時勢においておかしなことではない。自分の属する国に自分が持てる能力を提供することは国民として進んで申し出てもいい話である。しかしエリスにとってそれは恭太郎を裏切ることであり、恭太郎の生活を脅かすことにつながる行為だ。断じて受けるわけにはいかなかった。
「教授、父がどのように申したのか私はわかりませんが、そのお役目は絶対にお引き受けできません。そしてその手紙をやり取りしている男性は・・・その人は私の婚約者です。誰よりも大切に思う人です。その人の国に対してどうしてそんなことができますかっ!」と思わず激昂して声を荒げた。
教授はその態度をまるで予想していたかのように少し微笑みながら落ち着いた声でエリスの肩に手をかけて続けた。
「エリス、お父上からその日本人と君の関係は聞いている。しかし少女の頃にあこがれた異国の男性でもう何年も会っていないんだろう?おとぎ話の王子様のように憧れているに過ぎないんじゃないか?もともとお父上は君が日本に手紙を頻繁に出していることを良く思っていないんだよ。しかし真っ向から反対したり、頭ごなしに叱りつけることはしないで時が経ち、君がまともにアメリカの年齢もふさわしい男性と恋をすることを期待してきたんだ。高校のプロムも誰とも行かないと駄々をこねて困らせたそうじゃないか。しかし結果としてクラスメートのアルバート君と行ったんだそうだね。アルバート君の家は実は私もよく知っているのだよ。実にきちんとしたご家庭のご子息だ。そういう男と付き合って欲しいとお父上も、この私だってそう願うよ。そんな日本人のよくわからない男など・・・」と教授は聞き分けてくれよという顔つきでエリスを見た。
エリスはただただ震えて教授を睨むことしかできなかった。そして「私にはキョウタロウを裏切ることはできないわ。そして戦争が終わったらこんな国から出ていくわ。キョウタロウが住む場所が私の住む場所よ」と泣きながら叫び教授室から飛び出した。
寮の部屋に引きこもり恭太郎に何通も何通も手紙を書いた。この打診があった頃はまだ私信のやりとりはかろうじて出来ていたのだ。しかし大人たちがこの純粋な若い気持ちを尊重することはなかった。エリスの父が亡命ロシア貴族としてアメリカに渡っていた新参者であることを利用されエリスが快諾をしない場合はアメリカでの職も失いかねないほどの圧力がかかったのである。自分の態度如何でエリスの両親や親族にまで類が及ぶ状況にエリスは羽根をもがれた蝶のごとく抵抗できなかった。
エリスはそれから終戦間際まで日本の無線の傍受を強要されることになった。そしてエリスが故意に重要なやりとりを報告しないことを危惧して、二人一組の体制で同じ内容を傍受させられた。そうすれば内容に大きな食い違いが出たときにわかるからだった。エリスが傍受した無線の内容が山本五十六元帥の死を早めることになったとは恭太郎も思ってもみないことだったろう。しかしそれを知ったからとて恭太郎はエリスを責めることはもちろん無い。むしろエリスの心情を思って恭太郎自身が苦しんだかもしれない。
その頃から恭太郎を裏切っているという自分の気持ちに押しつぶされ、エリスは恭太郎へのほとばしる思いを手紙に書けなくなってしまった。しかしこのような逆境は前にも増してエリスに恭太郎を愛する気持ちを増幅させ、戦争が終わって一般人がアメリカを出ることができるようになったら・・・・家を捨てようと決心させることになったのだ