虹とは何か。
今回は多少流行の話題に乗ろうかと、虹についてのお話となります。
祝福だ!と喜ばれる方もいれば、人工だ…と冷ややかな方もいれば、更には迷信なんかに…と嘲る風潮、些細なことで喜べることを平和だと笑う風潮がある中、
そもそも虹とはどのような象徴を持っているものかについてお話しいたします。
現在の虹の定義といいますと「太陽の光をうけた空気中の水滴がプリズムのような屈折・反射を起こし、光が分解され起こる現象。弧をえがき、外側から赤、橙、黄、緑、青、紫の色となる。」といったものとなるでしょう。
しかし古来、この虹のできる仕組みが解明されていなかった頃、人々は様々な想像をしました。
科学のない時代、空という人間の力の敵わない舞台で起きる、美しくも不可解で畏れを感じさせる現象であったためです。
スピリチュアル・占いといったジャンルには参加していながら、その上琉球第二尚氏の血筋で占い師と言いながら、
よくある"虹は幸運のシンボル!"といった単語には半笑いを浮かべる私ですが、
だからこそ、多少様々な虹の象徴、意味をご説明しようかと思います。
まあ件の虹騒ぎの場所にも、沢山の国や地域、民族の方々が集まっていたのだから、それぞれの考えは違うことは書いておいてもいいでしょう(笑)
まずは様々な虹の象徴からご説明いたします。
虹の呼び名一つでも、英語ではRainbow(雨の弓)ドイツ語でもRegenbogen(雨の弓)オランダ語もRegenboog(雨の弓)スワヒリ語でもupinde wa mvua(雨の弓)フランス語ではArc-en-ciel(空(天国)に掛かる弓)イタリア語ではArcobaleno(閃光の弓(弦楽器))スペイン語ではArco iris(ギリシャ神話の女神イリスの弦楽器の演奏?)ギリシャ語はIris(先の女神の名前)ロシア語ではрадуга(古代ロシア語ではдугаと古文書に表記されるが虹以外の意味では使用されないとか、虹と馬のくびきという意味もあるとか?)中国語の虹(コウ)といった呼び方があります。
雨の弓は単純明快に雨空にできる弓の形のもの、といったものです。
次のギリシャ神話の由来であるイリスは、タウマスとオケアノスの娘のエレクトラの娘で、ハルピュイアの姉であり、ゼピュロスの妻で子供にはポトス或いはエロスがいるとされております。ギリシャ神話事典読みながらじゃないとダメだ、全くわからん。
有翼で描かれ、物凄いスピードで移動ができる天地を結ぶ虹の擬人化神といえます。
そのため神話内では、ヘラの忠実な部下で伝令係として扱われています。
しかしホメロスの『イーリアス』ではゼウスの伝令係であったため…口伝あるあるの曖昧な立場となっている様子です。取り敢えずスピーディな伝達ができる部下といった扱いだったようです。
冥界とも簡単に行き来できる設定だったはず。
古代中国では、虹は蛇・竜といった象徴をもち、生き物とされていました。
虹(コウ)という名の蛇の仲間だという説もあったそうです。
虹の字が虫偏であるのも、古代の中国では蛇は虫の仲間と認識されていたからだとも言われています。
水の神という象徴も言われがちですが、古代中国では竜は皇帝の象徴と言われ、瑞獣の霊亀がむしろ治水の才能をもつ皇帝が生まれた時に現れるものとなります。
象徴とされる竜は、ツノは鹿、頭は駱駝で、眼は兎、胴体は蛇で、腹部は蜃、背中には鯉の鱗があり、爪は鷹、掌は虎、耳は牛に似ており、長髭をたくわえ、喉下には一尺四方の逆鱗があり、顎の下には宝珠をもつとされました。
こちらの説明もギリシャ神話に負けず劣らず混乱するなあ。
この特徴にある蜃(シン)とは文字通り、蜃気楼を出すとされた古代中国から日本に渡ってきた伝承上の生物です。
鳥山石燕の絵がわかりやすいものですが、巨大なハマグリとされた説と竜とされた説があります。
竜の特徴にわざわざ竜の腹とは書かないはずのため、大ハマグリの腹となると…イメージが難しいな。(補足ですが、蜃気楼も蜃の伝承から生まれた言葉であり、海中にいる蜃が口から気を出すと楼閣を出現させるという想像が由来となります。突然海上に浮かぶ街のような現象に理由をつけようとし、巨大なハマグリがやっているんだよ、という筋書きを作ったようです。しかし、発想が面白い。)
また蛇足ですが、霊亀の特徴は中国神話では背中の甲羅に蓬莱山(ほうらいざん)という山を背負った巨大な亀とされ、たまに地球の古代のイメージ図に見られる象やら何やらいるものの巨大な亀だけのバージョンとも言えます。
東洋の神話では亀は長寿のため強大な霊力を持つとされ、未来の吉凶を予知できるのでは?と思われ、亀卜(きぼく)なる亀甲占いというものもありました。乾燥させた亀の甲羅(腹甲という話も)に錐で穴を開け、そこに炙った棒を差し込み、ヒビで未来を読み解くとされていました。占いを意味する卜という字も、このヒビの意味のひとつで甲骨文字とされます。
学生時代に水卜(みうら)さんという方がいましたが、その読み方に字も甲骨文字となります。
その後、今もなかなか当たると評判だという易経と陰陽を使用した八卦と呼ばれやすい占いにうつろい、亀卜は廃れたとされています。
日本は元々鹿の肩の骨で占っていたものを、奈良時代に中国から亀卜文化が渡ってきたことで始めたともされていますが、そんな神聖としていた生き物で占うなんて…なんて罰当たりな…生きてた子じゃないよね?生きていた子だったら動物虐待、殺害だから許さんぞ…と、つい思ってしまいます。
しかし、本当に畏れ敬っていたらやらないよなあ。
よく出土された亀卜の破片を見ると、遣る瀬無い気持ちになることも多々…と話がかなり逸れました(笑)
因みに霊亀には、甲羅に水脈が刻まれているという説もあったそうです。
(この霊亀らしきものに乗った徳川家康の銅像が何故か江戸東京博物館にこっそりと佇んでいます。突然の大雨や嵐などで戦から助かった逸話からのイメージかもしれません。興味を持たれた方はぜひお探しくださいませ♪)
また四獣では青竜・蒼竜のため、東の守護を守るものとなります。(青と書きますが中国五行思想では青はこちらでいうところの緑色を意味し、春の象徴もあります。青春の語源でもあります。)
あまり虹=蛇、竜という思想であっても、伝承上のものとは少し違ったようです。
日本の龍神信仰と近い思想かとも思われるため、そちらの理由は後ほど詳しくお話しいたします。
次に、ユダヤ・キリスト教の聖典であり、イスラム教の啓典の聖書(旧約聖書)の最初のひとつで正典とされている『創世記』からの記述の虹となります。
こちらは有名な神を怒らせた後の大洪水で、なんやかんやで赦され生き延びた唯一の一族ノアの方舟伝承の直後に虹が現れます。
そこで神とノアが契約をしたとのことで、ノアの契約という象徴をもちます。
人類祖先が神と契約した証拠が虹とされているということにもなりますが、現物する写本はモーセのものとされております。
が、そのモーセも口伝の存在であり、その割に詳しく設定がありますが、盛り過ぎている海を二つに割ったストーリーが一番有名となっております。
我が家でも背が高く肩幅があり、ズンズンと歩くことで人の波を割る母を度々、「モーセだ!モーセの再現だ!」と笑っておりますが、なかなか名前もポピュラーな方となります。
話は戻りますが、創世記とモーセの伝承から、他国では虹の象徴にある蛇の関与を思い起こしますと、エバを唆したという物語では悪魔、堕天使といった象徴で、なんだったか青銅の蛇を作ればいいよ〜みたいなことをモーセが言われ作ったものは、側に居るだけで癒される良いものという象徴となり、やはり力の強いもので良くも悪くも畏れを抱く対象だったようです。
ただこのアダムとエバの話は少し不可解なんだよなあ。
神に、アダムとエバは善悪の知識の実を食べてはいけないと言われていたーーけれども、蛇は神の教えを守り食べてはいない。
しかし食べるように唆した。
そして善悪の知識を持ったことにより地に落とされ、ある意味でアダムとエバは人間の身体を持ったとも捉えられる…
蛇は本当は神側で実は唆かすことで試しただけ、とも捉えられるんだよなあ。
腹這いになった理由は…いやアダムとエバが二足歩行ができた理由は…などと考えてしまうと、その物語の設定が今から六千年前だから日本でいえば縄文時代前期か中期くらいなんだよなあ(笑)
旧石器時代は人間いないことになってしまうぞ(笑)
と、またもや話が逸れましたが、ユダヤ・キリスト・イスラム教でも蛇は特殊な立ち位置だったようです。
そこで我らが日本となりますと、虹と言えば蛇、龍、となり龍神、水神の化身との説もありました。
江戸時代の古地図などを見ても、龍神の印はお稲荷さんの印のように多数見受けられます。
また、水に所縁の深い島国であるからか、全国的に龍神信仰があったことが見て取れます。
現在も龍神とはっきり祀られている土地もありますが、元々民間信仰である龍神信仰の地を廃仏毀釈でか、またはお寺の建立の立地条件故か、龍神は密教だと見た方々による制圧での神名の変更がなされている箇所も多々あるようです。
有名な神田神社なども、江戸時代の古地図にははっきりと龍神との表記があり、先に述べたように名前のある神が語られる前から民間信仰にあった龍神(名前の変更があったのか地図の記入ミスか、現在は徳川家康に連れられてきた漁師たちが作った日本橋魚河岸水神社となっております。この日本橋魚河岸水神社が移転した先の築地市場の閉鎖に伴い、築地の水神社も閉鎖との表記となっております。)、と稲荷社が社屋の裏側に隠されるようにあります。
稲荷と龍神は食物の収穫など生活に欠かせないことにつながるものを司るとされたためか、古くから非常に人気があったとされていますが、何か政治と宗教の密接な事情でか裏に隠されたり軽んじられることが増えていったようです。
この龍神信仰での虹は、吉でも凶でもなく、やはり龍そのものだという考えが多かったようです。
水を司るという意味合いから、水不足の際は水を降らしてくれるが、機嫌を損ねたり怒らせてしまったりすると、深刻な水不足や大雨による不作や水難、水害、氾濫を起こすとされておりました。
龍神とはある意味、諸刃の剣のような信仰対象と思えますが、この虹は古来の日本では不吉の対象とされておりました。
元々、昔万葉集ではヌジと表記されていた虹ですが、その語源にはヌシとナジという二つの説があります。
ひとつは主の意味で、山のヌシ、川のヌシといった畏怖の対象であるヌシとなります。
泉鏡花が各地を回り伝承を元に書いた物語や、元々のさまざまな伝承でも、山のヌシへの供物の話や山で行方不明になったものを無傷で帰してくれた話、山のヌシを殺してしまい飢饉が起きた話、怒らせてしまい干魃が起きた話、氾濫が起きた話、嵐が起きた話と大量の口伝があります。
その際には、人身御供(生きた人間を供物として捧げること)も多々あったとされ、村一番の少女が選ばれたという話も有名です。
しかしこの人身御供制度が山のヌシの怒りに触れたという伝承もあります。
これらのヌシを、元々山に住んでいた人々と意味する説では、先にその土地に住み着いていた氏族を襲い追い出した側が怖い思いをしたり、復讐をうけたりといったことが起き、祟りだと思ったのではないかという場合や、氏族同士の戦いでの交渉材料としての人身御供であった説もあります。
有名なものでは、宮崎駿監督の『もののけ姫』がわかりやすいでしょうか。
『もののけ姫』ではシシ神という名で山のヌシらしきものが描かれたり、人身御供をされたようなサンが登場したり、伝承にもある人間が神を怒らせたエピソードや人間が祟り神を産むエピソード、口減らしをされた子を山のヌシが代わりに育ててくれたエピソードをわかりやすく表現しています。
ただし、龍神と併せ考えた場合、古くより日本人が虹を畏れたのは龍神の力強さ、恐ろしさを知っていたから、とも思われます。
つまりは「食料難、飲料水不足、氾濫、水没、水の流れの恐ろしさと力強さ、当たり前にある訳ではない水の大切さ」をよく理解し意識していたと言うことがわかります。
また、虹を橋と捉える思想は北欧神話でも有名で、天上の神界へと繋がるビフレストというものだとされました。
ブリヤートの人々のシャーマニズムでも虹は魂が天に登る道とされ、日本神話では逆に伊耶那岐、伊耶那美が虹を渡って下界に来たとされました。
伊耶那岐が現世の神、伊耶那美が冥府の神とされるのも同じ思想からと言えます。
あの世とこの世をつなげる橋とも言われることは、フランス語の意味である天国に掛かるアーチやイリスの冥界への伝達の口伝からも見て取ることができます。
その結果、あの世とつながる=死者と近くなる、と言った意味で不吉とする風潮もありました。
またオーストラリア神話でも龍神に似た象徴があり、虹は天地に住み水をもたらす神であるとされたそうです。
またドイツ、フランス、ブルガリアの伝承では虹は水を飲みに天から現れ(こちらも生き物として捉えているのが面白いものです。)その虹の根本には金のカップがあり、虹が水を飲んでいる間にそれを手に入れると一生持ち主に幸運をもたらし、手放すとたちまち災いが起こるとされました。
日本にある虹の麓には財宝が眠っているという伝承も似たもので、これらは水にお金と同等それ以上の価値があったことを示しています。
またインドではインドラ神が雷の矢を打つ弓だとした伝承もありますが、こちらはイタリア語の閃光の弓とつながる印象があります。
チベット仏教は日本では仏教でも密教に分けられやすいですが、虹の身体なる瞑想方法があるとされ、瞑想の境地に達すると最終的に虹に同化して肉体を喪失する、といった恐ろしい瞑想の話もあります。
虹になってしまったら瞑想の境地に達したのかどうかすらわからなくなってしまう気もしますが、密教の曼荼羅などにも背景に虹が書かれることが多々あるため、虹は神聖なものとされたようです。
このように虹はそれぞれの国や土地、その時代によって吉兆とも凶兆ともされました。
世界的に力強いものと想像されていたことと、どの国でも似た思想が見られることは、文化人類学といった見方からは非常に面白いものとなります。
また古くから、人々は聖なるものを同時に危険なものと考え続けてきました。
この世に存在するものは須く良い面と悪い面をもち、同時にそれが一方には良く、他方には悪い場合もあるのです。
さて、これらを踏まえーーと言いつつ、この長ったらしい文章を読む方が居るか私個人は甚だ疑問ですが、
是非とも昨今生まれたばかりのただ美しいから縁起がいい、といった安直な考えに収まらない、古人の様々な思想や民族伝承を踏まえ、更に自身の感性を元に、
ひとりひとりの意思で判断なさることをお勧めいたします。
誰かが良いと言ったから良いもの、また誰かが悪いと言ったから悪いもの、と他者の意見に依存しない人々が活躍する時代となることを、こっそりと祈ります。
全く別の新しい観念を、あなたが産み出しても構わないのです。
他者に押し付けさえしなければ(笑)
さて、あなたは虹に何を感じ、どう捉えるかな?
久しぶりに真面目な記事になったかね。
以上!!
不可思議堂