ここ数日の気候の為かはたまた梅と河津桜の花見に出かけた為か、
気分がまさしく春そのものとなっている今日この頃です。
久方ぶりの更新は、そんな春を題材とした詩を集めた記事となります。
個人的に春になると読みたくなる詩、思いつく詩を徒然と紹介しましょう。

因みに先程、母上様に「春になると詩を読みたくならない?」と言った際には、「ならないよ(笑)今までなったことないよ(笑)」と軽く鼻で笑われました(笑)
という訳で、今回も私にしか需要のない記事となります。

先にNew車椅子で見てきたご近所の梅と桜を載せましょう。
他所様の御宅にごく普通に咲いているのですが、退院後、久しぶりに(5年ぶりか?)彼らにも会いに行けました♪
車椅子の視界から見える景色は、実はかなり美しいこともお伝えできるでしょう。



空の青と雲の白、それらに映える彼らの美しい花弁!
人混みの際は、下手なアトラクションよりもずっとスリルを味わう視界ですが、空いた道端で花を見つめるのには最適です。
そして、New車椅子の可動性の素晴らしさ!
筋トレも捗るぞー!
昨日リニューアルオープンした歴史民俗博物館の火焔土器率いる縄文エリアにも夏前に行きたいし、今年夏前にリニューアルオープンする駅にも行きたいから、より鍛えておかねば!

さて、本来の話題に戻ります(笑)

一番手はーー犀星かな、やはり。

"ふるさとは遠きにありて思ふもの"で有名な自然を愛する詩人、室生犀星と言えば犀星猫、火鉢猫と名高い"ジイノ"との写真でも有名です。
もしご存知でない猫好きさん、又は癒されたい方は是非、「犀星猫」で検索を!
と、アレ、猫好きさんには少しばかり需要がありそうな話題が挟まったところで、またもや私用の話題に戻ります。

「三月」 室生犀星

うすければ青くぎんいろに
さくらも紅く咲くなみに
三月こな雪ふりしきる

雪かきよせて手にとれば
手にとるひまに消えにけり
なにを哀しと言ひうるものぞ
君が朱なるてぶくろに
雪もうすらにとけゆけり


こちらは、未だ寒い春、なごり雪をうたった詩となりますが、次に暖かな春を感じられる犀星の詩も載せておきましょう。
どちらも室生犀星詩集より引用です。
この詩は特に、春に声に出して読みたい詩、個人的一位かもしれません。

「桜と雲雀」

雲雀ひねもす
うつらうつらと啼けり
うららかに声は桜にむすびつき
桜すんすん伸びゆけり
桜よ
我がしんじつを感ぜよ
らんまんとそそぐ日光にひろがれ
あたたかく楽しき春の
春の世界にひろがれ


…好きだなあ、やっぱりいいなあ、犀星。
朝一番に空に向かって朗読したくなる詩なのですが、残念ながら庭に今いる渡り鳥は、椋鳥のムッくんのため、雲雀ひねもす、とは言いづらい。
ムッくんは気にしなさそうだけれど、何となくムッくんが聴いていると思うと言いづらい(笑)
庭に桜もないから、他所様のお宅の河津桜を見ながらこころの中で詠むだけに留めておきましょう(笑)
桜がパンジーじゃ、大分雰囲気が変わってしまうものな。
だが待て暫し。パンジーの名の由来が「思想」を意味するフランス語のパンセ(Pensées)からきているなら悪くない気も…。
哲学的になるのではないか…否、元より詩は、歌のかたちをとった哲学で、絵画も音楽も、どれも姿かたちは違えど「こころ」を伝える一種の「方法」だから、哲学と言えなくもないーー
と、よくわからないことを言い出したところで、次の詩人にいきましょう(苦笑)

では、犀星とくればーー勝手に犀星を青白い美少年だと思い込み、初対面の際は心底ガッカリした第一印象はお互いに最悪だったと言う無二の親友、萩原朔太郎からーー

「春の感情」 萩原朔太郎

ふらんすからくる烟草のやにのにほひのやうだ
そのにほひをかいでみると 氣がうつとりとする
うれはしい かなしい さまざまのいりこみたる空の感情
つめたい銀いろの小鳥のなきごゑ

(中略〜ここで、ぞくぞくとした萩原朔太郎らしく、また同時に春の不思議な不安感や寂しさが語られています。)

春がくる 春がくる
春がくるときのよろこびは あらゆるひとのいのちを吹きならす笛の ひびきのやうだ
そこにもここにも
ぞくぞくとして ふきだす菌 毒だけ
また藪かげに生えてほのかに光る べにひめぢの類。

菌、毒だけの言葉に、きのこアレルギーの身としては違う意味でもゾクリとしながらも、萩原朔太郎の詩ではまた違う"不安を抱いた精神の春"を感じられます。
春分の季節ごろは占い師としても、運気や気分の変わり目のため、やはり皆繊細な方ほど気持ちを崩しやすいものです。
これ程までに繊細な萩原朔太郎の心情は、彼のあらゆる詩がなによりも語っています。

さて、次なる詩人はーー思いついた順で脈略も何もないが、春に読む本のひとつ、井伏鱒二の「厄除け詩集」より引用です。
(授業で井伏鱒二の作品名を書く際、山椒魚の椒に自信がなくなり、厄除け詩集と書いた記憶があります(笑))

有名過ぎるものですがこちらーー于武陵(うぶりょう)の漢詩「勧酒」の名訳です。

「勧酒」 于武陵
勧君金屈巵
満酒不須辞
花発多風雨
人生足別離

 井伏鱒二 訳

コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

先の萩原朔太郎の侘しさから思い出したのかね。
しかし、この名訳も本当に好きな詩のひとつとなります。
そして何故かやはり春に読みたくなる本である「厄除け詩集」といえばこちらの作品です。
「春昼・春昼後刻」と長田弘全詩集も欠かせませんが(笑)

さて、お次は中原中也ーーの前に、少し似たような感覚を感じた小林秀雄の言葉を引用いたします。

有名な小林秀雄の言葉「見ることは喋ることではない。」という台詞です。
時に、見ることと話すことは別物と捉える方もいるそうですが、私の感覚では、小林秀雄は"喋ることに優ることとは、見ることだ。無駄な言葉で飾らないで、空も花も風も絵もこころも、見て感じろ。芸術である作品は頭で理解するものではない。"と言っているように感じた言葉です。
詩も心の叫びを描いた文章も、物語のワンフレーズさえ、頭で考えてしまったら最後。
その言葉は生命を失います。
当たり前のことだと思っていましたが、小林秀雄が諸君、とわざわざ言うところからして当たり前じゃないのだろうか?
"言葉の奥にある意味は、きっと無意識が知っている。"そんな穿った解釈をしてしまいましたが、そう考えるととても好きな言葉となります。
存外、一般解釈のままだったりするのかな(笑)
取り敢えず、原文を引用しましょう。

「言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の花の咲いているのを見たとする。見るとそれは菫の花だとわかる。何んだ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君は花の形も色も見るのを止めるでしょう。」

引用したかったのですが、手元に本がなかったため、ネットからの引用となりました。
「美を求める心」だったはず。少し間違っていたら御免なさい、考えるヒントとごっちゃになったかも…と思いつつの紹介となりました。
読んだ際に思ったことは、そうでもないぞ?という疑問でしたが、どうやら今はそのようにじっくりと見る人は減ったという噂を聞きました。
この諸君とやらの感覚は、なかなかに私には理解のできない感覚と思えます。
何故なら、私は菫の形をよく知らない!(笑)
菫だと言われても、誰かが名付けた名前なら、私はその花に勝手にあだ名をつける!猫にも鳥にも勝手に名をつける!といった謎の頑固さを子供時代から発揮しているため、特徴を見、美しさや雰囲気から親しみやすい呼び名を考えるまでが私の散歩の嗜みとなります(笑)
単純に、花に詳しくないだけとも言えますが(笑)
虫にも詳しくないから、いつもあだ名をつけるもんなあ。
昇降機にも車椅子にもあだ名をつけるけれども、そうすると仲良くなった気持ちになれ、更に感謝して、大切に使うことができるのです(笑)

因みに"桜の木だ"と言われても、桜の花弁とはどんなだったか、色合いによってはこれはなんの桜だ、梅と似た花弁が偶に紛れているのを見つければ梅と勾配したか、できるのか、などと考えてから、
どちらにせよ、美しい!!と兎に角眺め続けるのが、私の花見の嗜みでございます……が、
どうやら一般的な花見とは違ったご様子?
お酒飲めないからなあ…花見のイメージが違うのかね。

さて、脱線しまくりましたが、そんな小林秀雄の言葉を思い出した詩がこちらです。

「春宵感懐」 中原中也

雨が、あがつて、風が吹く。
   雲が、流れる。月かくす。
みなさん、今夜は、春の宵。
   なまあつたかい、風が吹く。

なんだか、深い、溜息が、
   なんだかはるかな、幻想が、
湧くけど、それは、掴めない。
   誰にも、それは、語れない。

誰にも、それは、語れない
   ことだけれども、それこそが、
いのちだらうぢやないですか。
   けれども、それは、示かせない……

かくて、人間、ひとりびとり、
   こころで感じて、顔見合せれば
につこり笑ふといふほどの
   ことして、一生、過ぎるんですねえ

雨が、あがつて、風が吹く。
   雲が、流れる、月かくす。
みなさん、今夜は、春の宵。
   なまあつたかい、風が吹く。


中也が詩であらわす、この語れないこと、示かせないことを小林秀雄も語ろうと苦心していたのかもしれません。

まだまだ北原白秋や三好達治、佐藤春夫、外国ならランボー、ヴェルレーヌ、ボードレール、シェイクスピアのソネット、最近の方では長田弘さんなどもまとめたかったが、
この記事が気になったなら、私よ、取り敢えず読め!
大丈夫、読めば芋づる式に沢山思い出すから!!と長くなったオチを、もしかしたらこの記事を読む自分へと委ねておしまい。

しかし、やはり春は春の詩を読むのが粋だねえ。
そして解説しないでこころで読むことが、詩を楽しむ一番の醍醐味だ(笑)
答えがないくらいがちょうどいい。
決めつけた思想や考えには、柔軟さがなくなるからね。
ボールドでふわっとなったタオルくらいの身近さと不思議さで読まなければならない……
しかし、ボールドって凄いね、なんであんなにふわふわになるんだろうね、
広告を見る限りでも、もの凄い柔軟さだ、
本来のタオルよりも柔らかそうに見えるぞ…手品か?
と、喩えが悪すぎた上に脱線したところで、以上!!


春眠不覚暁のお二方と、自家製プリン、謎のなるぽんさんのお写真とーー






何故か堀口大學の詩でおしまい。

今回の記事に一番あっていて、且つ短くて素晴らしいんだよなあ。

「人に」 堀口大學

花はいろ そして匂ひ
あなたはこころ
そして やさしさ


花のいろに、人のこころと同じだけの意味があり、
花の匂ひに、人のやさしさと同じ意味があるとしてーー尋ねてみましょう♪

セザンヌ先生、先生の尻尾にはこころと同じだけの意味がございますか?
なるぽんさん、君の鼻には、やさしさと同じ意味がございますか?


なる「こたえはーー」


なる「起きたとき、まだこの手を握ったままだったら教えたげる。」


セザンヌ先生「起きて、ゴハンを食べて、また寝て…その後に起きたときに憶えていたら、答えてあげます。」

どうやら答えは、見て知るしかないようです(笑)

以上!!やはり落ちていないけれど、おしまい!!

不可思議堂