Rickに出会った数ヵ月後に書いたものですね。やっと恋愛依存から抜け始めたころ。
堅い文面なので読みにくいかもしれないけど、気が向いたら読んでみてください


自己嫌悪の時期に突入している。
したいことをしていない自分が嫌だ。
だが肝心の「したいこと」がわからない。
未だ日本でくすぶっている自分が嫌だ。
だが行きたい場所がわからない。
今の週三日のバイトは好きだしやり甲斐があるが、十分なお金は稼げない。
だが他の仕事を探す気力もない、そんな自分が嫌だ。
やりたいことは見え始めてきたが、一歩踏み出す自信も勢いもない。
そんな自分が嫌だ。
家族に対して感情任せに好き勝手振る舞っている、
そんな甘えた自分が嫌だ。
自覚しているのに変えられない、自分のふざけた自尊心が嫌だ。
部屋を片付けられない自分が嫌だ。
あるだけお金を使ってしまう、後先考えずにその場の気分で行動してしまう、
計画性も建設性もない自分が心底嫌だ。
嫌いなところをあげればきりがない。
おこがましいようだが、以前は全くそんなことを思わなかった。
自覚はあるのに、そんな自分が嫌ではなかったのだ。
自己否定する勇気がなかったのだろう。
とんだ甘ちゃんである。
阿呆なようだが、自己嫌悪というものを、心底嫌悪していたのである。
笑ってくれて構わない。
こう言うとおかしいかもしれないが、最近は、きちんと自分が嫌いなところを自覚できるようになった。
何が変わったのだろう。
年齢のせいもあるに違いないが、恋愛主義から脱したことがとりわけ大きいだろう。
恋愛は、言ってみれば最高のシェルターである。
自分を好きで、丸ごと容認してくれる人間との、一対一の関係の中に収まっていられるのだから、これほど自己肯定できる環境は、よほど良好な親子関係を除いて他にない。
うまくいっているときの恋愛には、絶対的な安心感がある。
仕事でも勉強でも家庭問題でも、他の何がうまくいっていなくても関係ない。
恋愛さえうまくいっていれば、自分を好きでいられる。
どんなに嫌いな自分でも、受け入れてもらえる。
だがそんな恋愛はさもしい。
そんな小さな世界でのみ存在できる自己は、ひどくちっぽけであやふやなものでしかない。
いったん関係が壊れてしまえばいとも簡単に崩壊してしまうほどの、頼りない自我にしかなり得ない。
それに気づかないうちは、ハタから見れば馬鹿げた男との関係に価値を置き、その関係が全てになって、すがりついてしまったりするのだ。
恋愛は頭でするものではない。実際、感情をコントロールするのは至難の業だ。
客観性で恋愛をすることなど不可能だし、そうなったらそれはもう恋愛とは呼べない。
言いたいのはそういうことではなく、まったく当たり前のことなのだが、
恋愛はすべてではない、ということだ。
口で言うのは簡単だし、ある人には
「当然のことじゃないか、そんな事も知らないなんてアホじゃないか」
と言いたくなるかもしれない。
だが、ある種の人間には認めるのもひどく難しいことなのである。
人間は皆、寂しい。
どんな人間でもだ。
寂しくない人なんていない。
寂しいというのは、独りでいられないとか、そういうことではない。
精神的に親から離れて一人の人間として自立するということは、ごく孤独な作業であり、それは十代のはじめから既に始まっている。
個として存在すること自体が、基本的に寂しいことなのだ。
自分という個を受け入れる作業は、簡単なものではない。
親の協力も必要だし、教育の場も大きく作用する。
社会環境や、時代の風潮や、家族関係も影響してくる。
それらのせいで、そのプロセスが上手く機能しない場合もある。
例えば、親離れ、子離れができない家庭や、抑圧的な教育環境、常に親の顔色を伺うような子供時代、親からの大きな期待や、逆に親にネグレクト(無視)されるような家庭環境なども原因の一つになり得るだろう。
誤解されると困るのだが、だからといって、人間的に問題のある大人になってしまうなどと言っているのではない。
人は皆、寂しい存在であるのに、その寂しさを容認できないということが問題なのだ。
寂しいことはけして悪いことではない。
だがその寂しさにどう対処すればいいのかわからない。
そういう人の多くが恋愛に走る。
恋愛はドラッグのようなもので、依存性がある。
個としての寂しさをうまく受け入れられない人の多くが、その依存のループにはまってしまう。
恋愛にはエネルギーのはけ口があるからだ。
親とも、友達とも、自分とすらもぶつかり合えない、そのくすぶった寂しさのエネルギーが、恋愛においてはいとも容易く発散できるからだ。
自分への苛立ちは、簡単に相手への苛立ちへと変換できてしまえるし、自分を受け入れられないもどかしさは、相手に受け入れてもらえないもどかしさと錯覚してしまえる。自分を愛せない哀しさは、相手に愛してもらえない哀しさにすり替えてしまうことができる。
恋愛関係においては、個である自己ではなく、常に他者にフォーカスしていられる。
直接、自分の目でなく他者のフィルターを通して、良いように歪められた自己を見ることで、その寂しさと向き合わないでいられる。楽である。
それは、白雪姫の継母が、「世界で一番美しいのはだぁれ?」と四六時中鏡を見つめているのと変わらないのだ。
きちんと自分の中で個の自分を噛みくだけていない人が恋愛に走ってしまうと、その幻想の自分と自己評価に惑わされ、ふりまわされ続ける。
その、相手任せのあやふやな自己を肯定しようと全力を注ぎ、相手に尽くすこと、相手を愛することで自己評価を上げようとするのだが、もちろんそんな恋愛はうまく行かず、疲れられるか、飽きられるか、自分がボロボロになって疲れ果てるのがオチだ。
エネルギーを注ぐべき対象を間違っているからだ。
「充実した恋愛ができるのは、恋愛がすべてではない人だけだ」
という村上龍の考察は当たっている。
だがそれを実感として受け入れられる人は、すでに恋愛に悩んでいない人だけだろう。
自殺よりはSEX―村上龍の恋愛・女性論/村上 龍

そんな恋愛の連鎖と、歪んだ自己愛からの脱却は、まず自己の存在の寂しさを自覚することから始まる。
自分が嫌いになってもいいのだ。
自己嫌悪しなければ、人は成長できない。
寂しい自分と向き合うことは、あなたがあなた自身を信じるということに他ならない。
あなたがありのままの自身を認めない限り、誰もあなたを認めることはできない。
人は、自分自身を愛せるようにならない限り、人の愛を受け取れることはできないのだから。
2007-05-05
Posted by Amy
それでもわたしは、恋がしたい 幸福になりたい お金も欲しい/村上龍

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