7年前のニューズレターから

『癒しの必要性』⑶

#26−2017/2/17

⑵からの続き

 

 

温泉以外で

「癒し」という言葉が、

使われている場面を想像しました。

 

それは、「弱い自分をヨシヨシして欲しい、

弱いままでも大丈夫だよと、

慰さめながら痛みは軽減させて欲しい、

そして、

できればそのままのあなたでいいんだよと、

安心させてくれて、

ついでに自信もつけさせて欲しい」

という心情のときではないか?

と思い至りました。

 

思うに、

その状態にいるときは依存状態です。

もちろん、

例外もある前提ですが。

 

また、

実際にクライアントさんと向き合うときは、

慎重に丁寧に聞き取りをして、

全く違う結論を出すかもしれません。
 

でもまあ、

上記の仮説を進めるなら、

癒しを求めているときとは、

外に助けを求めているので、

外から何かを与えられることによって、

自分が楽になると信じている状態です。
 

外部要因で、

幸せにも不幸にもなるということです。

それはつまり、

外部要因に振り回されない生き方の、

可能性を想定していないので、

振り回されるか、

振り回されないかという選択肢はなく、

どう振り回されるかの

「どう」という部分が重要となります。

そのために、

いかに少しでも楽に振り回されるか、

という手段や、

外部リソースを身につけることしか、

思い浮かびません。

 

それがセラピー巡りだったり、

セミナー巡りしている時期でしょう。

 

 

自分の外の何かによって癒されるなら、

自分の外の何かによって落ち込んだり、

自己嫌悪に陥ったり、

他人と比較して優越感を持ったり、

劣等感を持ったりということも、

受け入れるということです。

 

自分の人生とは、

外部要因によって右往左往するしかない、

実に頼りないものとなります。
 

その段階にいるときに、

誰かがその人に向かって、

「あなたの内側にエネルギー源がある」

だとか、

「自分の意識次第で自信が湧き上がる」

なんて言われても、

「なんて荒唐無稽なことをいう奴なんだ」と、

言われた言葉には現実味はない筈です。
 

で、

私の人生の道の上で、

ファミリー・コンステレーションを、

使って行くと決めた際に、

自分の中で明確にした事があります。

 

手助けはしても助けない、

「私が助ける」という幻想を、

クライアントや、

トレーニング生に与えないことを、

意識の中心に置くことにしました。

 

私のワークショップや、

トレーニングには癒しがないとか、

厳しいとか言われることがよくあるのですが、

今あらためて、

これまでの考察を元に照らしわせると、

それはもっともだな、と思います。
 

癒しを求めている間は、

決して癒されることはないし、

癒しという言葉自体が儚いもので、

わずかな瞬間にしか現れないものであり、

持続できないものであり、

執着しても無駄なものであり、

執着することで、

その人の自立する力を奪うものだから、

役に立たないと私は思っているので、

私としては、

しつこいぐらいに、

その人にとって見る必要のある現実を、

これでもかと目の前に見せて、

体感し、実感できるように、

いろんな技を駆使していきます。

 

幻想という温泉に、

一生浸っていたいのかと問いかけ続けるので、

うるさいと言われます。
 

もちろん、

幻想を手放した後に、

何が待っていてくれるかという、

サンプルも提示しておくのですが、

手放したくない時点では、

そりゃあ、

何を見せられてもかなりうざいでしょう。
 

でも、その人は敢えてここを選んで、

現実を見るための場に来たんですから。

 

ひとたび、

自分の体の内側全部に、

今まで自分を見守り続けてくれていた、

数多の温かい眼差しを感じ、

金色の光で、

満たされる経験をしてしまったなら、

感謝と恩が心臓を揺さぶるほどに溢れる時、

それは人を静かに立ち上がらせ、

大地を踏み締める足の裏の感覚と共に、

歩ませ、進ませてくれます。
 

それは執着を、

本気で手放した後にしか起きないことであり、

それを味わってしまったなら、

癒しを求めていた自分は、

なんてちっぽけだったのかと、

吹っ飛ばされてしまうのです。


 

人は本来の力と繋がるなら、

癒される必要なんてないみたいです。

 

追伸としてお伝えしておきますと、

いったんトレーニングに入った方は、

ひどい、とか、

またきっついことを言われたとか、

文句を垂れながらも、

生きるのが楽になってしまうようです。

 

その姿を見ると、

ワークショップの後も、

トレーニングの後も私は疲れ果て、

立てなくなるくらい、

全力投球をしているのですが、

私の注いだエネルギーは、

もしかしたら、

どこかに通じたのかと思う事ができます。


 

私の仕事の時の顔は、

ワークショップと、

トレーニングのときでは違うらしいです。

 

ワークショップに参加したトレーニング生によると、

ワークショップのときの(ほう)が、

参加者に対して態度が優しいのだそうです。

まあ、それなりにでしょうけど。

 

私は、どんなに文句を言われようと、

ここにいるその人の魂の渇望を見て、

そこに全神経を合わせ、

できることをします。

表層意識は癒しを求め、

魂は責任ある自由を求めます。
 

責任ある自由が自信を生み出します。

自信とは自己への信頼です。

 

私は、

ファミリーコンステレーションという、

類まれな手法を通して、

クライアントやトレーニング生が、

自分への信頼を見つける手助けをします。
 

私なりに、

あまり厳しいと感じさせないように、

気をつけてはいるのです。

本人はそのつもりなのです。

悪しからずご了承ください。

 

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3月9日、10日の土日の二日間、

東京でワークショップを開催します。


しばらく全然お知らせできずにいたら、

ワークショップの働きかけ枠が、

余裕で空いています。

 

これは自分の癖だとか、
自分の性格だからと諦め、
受け入れている不都合は、
もしかしたら誰かを助けるために、
背負いこんでいる、
他の人の過去の傷かも知れません。

 

いじめのターゲットにされているとか、

ストーカーの、

被害を受けているといったケースも、

原因を探る手段として、

コンステレーションを使うことができます。

 

親が嫌い、親が怖い、

親を許せない等の親子関係の悩み、

何をやっても上手くいかない、

不運に付きまとわれている、

といった個人的な不調、

夫/妻との壊れた関係を修復したい、

といった夫婦関係の問題、

仕事では、

できる限りの努力をしてきたのに、

良い結果に結びつかないなどの、

様々な問題に対して、

全く異なる角度から、

解決法を見つけていきます。

 

問題はあなた自身にあるのではなく、

過去に起きた、

出来事に起因しているのかも知れません。

もし、そうならそれを手放すことは可能です。

 

 

 

 

4月からは新たなトレーニングが始まります。