『無意識と暗示と投影と責任』<後編>
342018/2/8


<前編からの続き>

人の無意識というのは、

恐ろしく暗示にかかりやすいと、

この頃深く思うようになっています。

私がかつて想像していた以上に、

人はとてつもなく暗示にかかりやすいようです。

 

自分の本来の感性に、

不適合な物事であったとしても、

繰り返し、目にし、耳に聞こえてくると、

それを当たり前のように信じてしまうのが、

人間の悲しい無意識の性(さが)です。

 

最初は違和感を持っていたかも知れないのに、

何度も、何度も、

同じ情報が延々と当たり前のこととして、

身の回りに溢れ続けていたなら、

最初あった違和感もそのうち麻痺し、

私たちの感性は慣れて、

鈍らされていきます。

 

無意識に刷り込まれたイメージが、

自分の生きて行く方向に影響を与えます。

 

無意識に刷り込まれたイメージが、

人間関係に投影されます。

 

人は自分の主観を価値の基準にした、

フィルターを通して世界を見ています。

良いフィルターであろうと、

悪いフィルターであろうと、

投影をしないで生きることはまず不可能です。

 

自分の価値観、

世界観をフィルターにして、

私たちは、

自分とはこういう人間であると思い込み、

目の前の人を判断し、

その人物像を自分の考えに沿って決めつけ、

受け取ります。

もしかしたら、それは本来の自分とも、

また、目の前の人とも、

全く無関係なイメージなのかも知れないのです。

 

かつて、

日本がバブルエコノミーに浮かれていた頃、

私はニューヨークの旅行代理店で、

つましいOLをやっていました。

買い物をしたり、

タクシーに乗ったりした時に、

私がどこの国から来た人間かわからない段階では、

店員やタクシードライバーは、

ぞんざいな態度だったのが、

日本人だとわかった途端にフレンドリーになり、

媚びへつらうような態度になる、

ということがありました。
 

意味がよくわからず、

日本人だと敬意を持って扱われるのかと、

最初は素直に嬉しがっていたのですが、

そのうち、

バブルで金があって騙されやすい人種、

と見ているということがわかってきて、

ちやほやされても、

嬉しくもなんともなくなりました。
 

この人たちは、

「私」にフレンドリーなのではなくて、

「バブル景気の日本人」

にフレンドリーなのだと知ると、

彼らの振る舞いは、

私とは関係のないものとなりました。
 

私に投影されているものと、

私との間に差があることに、

気づくことができた瞬間を、

認識できたのは幸運でした。

 

もう何年も前のある時、

NHKのドキュメンタリー番組を観ました。

インタビュアーが台湾のおじいさんたちに、

日本の統治時代が、

どれほど酷いものだったかを聞き出そうと、

いくつもの質問をしていたのですが、

台湾のおじいさんたちは口々に

「日本人がいた頃はいい時代だった」。

「日本が去って行ってしまって寂しい」。

「兄に見捨てられた弟のような気持ちだ」。

「日本に帰ってきてほしい。

今も待っている」

といった言葉が口々に語られ、

インタビュアーの意図とは、

ちぐはぐになっていくという、

とても不可思議な番組で、

非常に印象に残りました。

 


(小林よしのりのゴーマニズム宣言は賛否両論ありますが、歴史を知るためなら「台湾論」はひとまず役に立つと思います。全面的に賛同している訳ではありません。)

 

それで気がつきました。

それまでの私は

「ドキュメンタリーとは、

事実をありのままに映すものだ」

と信じていたのです。

でも、ドキュメンタリーの制作側も、

悟った人によってできているのではないので、

作者の世界観に沿って、

映像も編集されていくのだと、

その番組のおかげで気がつきました。

 

情報を発信する側が完全に悟りを得て、

公正な生き方をしているのでもない限り、

新聞もテレビも雑誌もネットのニュースも、

すべて誰かの意図や投影によって、

着色されています。

 

教育もしかりです。

子どもたちの無垢で素直な眼差しも、

関わる教師の思想や行動によって、

その後の子どもたちの思考力や判断力に、

とんでもない影を落としかねません。

 

ずいぶん前のことですが、

インドで、

瞑想のアシュラムに滞在していたときのこと、

お茶の時間に、

色々な国からきた人たちが、

一つテーブルを囲んで会話を楽しんでいました。


その内の一人の知り合いだという、

韓国人の男性が仲間に加わりました。
 

どういう話の流れだったか忘れたのですが、

初対面のその男性は私が日本人だとわかると、

昔の日本人が、
どれほどひどいことを、

韓国人に対してしたかを話し始め、

激しい憎悪を私にぶつけ始めました。
 

当時の私は、

歴史を全く知らないノーテンキな人だったので、

寝耳に水の状態でした。
 

今の私であれば、

日本政府が朝鮮を台湾よりも厚遇して、

統治していたことを知っているので、

その人が何を教育され、

事実と違うことを教えられてきたか、

何を教えられてこなかったかを瞬時に察し、

自分に関係あることとないことを、

読み解くことができるのですが、

そのときは訳もわからず罪悪感にかられ、

自分の足元が揺らぐような感覚を、

覚えたことを思い出します。

 

私たちは、自分が何をどのように見ているかを、

自分で気がつかない限り、

公正な、ニュートラルな目で世界を見ることはできず、

目の前の人を知ることもできないのです。

 


 

無意識に焼き付けられた情報を元に、

他者に自分の想像を投影しているとき、

私たちは、

自分を無意識であるとは認識していません。
 

無知でいることは、

他者によるコントロールを招待することであり、

自分が無意識に、

他者に投影している可能性を排除しているとき、

私たちはもっとも無責任です。

 

過去に支払われた労力と犠牲の大きさを知り、

それに感謝することができるなら、

私たちは自分の今を無駄に使うことが難しくなります。

丁寧に生きること自体が責任というものでしょう。

 

深層心理に焼き付けられた、

家族システム上のトラウマは、

コンステレーションを通して、

初めて客観視することが可能になります。

20世紀にヘリンガーは、

画期的な方法を見つけてくれたものだと思います。

 

日常の感情や感覚が、

本当に自分本来のものなのかに気づくためには、

日々瞑想する以外に知る方法はありません。

 

 

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3月9日、10日の土日の二日間、東京でワークショップを開催します。


風邪で寝込んでいた間、ワークショップについて全然お知らせできずにいたら、働きかけ枠が余裕で空いています。

悩みや苦しみに終わりをもたらすことは可能です。
自分を責めるのも、付きまとう罪悪感も終わりにすることはできるのです。

ファミリー・コンステレーションはそのきっかけをもたらします。

 

「親が嫌い、親が怖い、親を許せない等の親子関係の悩み、何をやっても上手くいかない、不運に付きまとわれているといった個人的な不調、夫/妻との壊れた関係を修復したいといった夫婦関係の問題、仕事ではできる限りの努力をしてきたのに良い結果に結びつかないなどの様々な問題に対して、全く異なる角度から解決法を見つけていきます。
問題はあなた自身にあるのではなく、過去に起きた出来事に起因しているのかも知れないのです。

 

 

 

 

4月からは新たなトレーニングが始まります。